「 わたしたちの町 おごおり 」 へ ようこそ!!
8−(1) 町の発展につくした人
椎の木峠トンネル(用水路
わたしたちは、山口農業高校のある仁保津へ出かけました。そこは高台で、近くには川がありません。でも、田には黄色く色づいたいねが実っていました。
「水はどこから流れて来るのだろう。」
ふしぎに思ってよく見ると、田のそばに小さな水路がありました。わたしたちは水路をたどって行くと、農業高校のうら山にぶつかりました。そこには“椎の木峠トンネル”というかん板があり、そのおくに子どもが入れるくらいのトンネルがありました。
椎の木峠トンネルのかん板
用水トンネルができる前の様子
昔は、ほとんどの人が農業をしていました。だから、お米は今のお金と同じくらい大切なものでした。
今からおよそ150年ほど前、仁保津の農家の田は椹野川のそばにありました。
ところが、大雨が続くと、椹野川がはんらんして、田は流されてしまいました。
そのたびに、農民はていぼうをじょうぶにしましたが、大雨になると、ていぼうはこわれてしまいました。
「水害の心配をしないで、安心して米を作りたい。」
農民のだれもがそう願っていました。
トンネルをほる
「高台を田にかえて米を作るんだ。」
小郡の庄屋、林文左衛門は強く決心しました。
そこで、ひと山こえた谷間にため池をつくり、トンネルをほって、その水を引く計画を作りました。
役所のゆるしをもらい、文左衛門はトンネルをほり始めました。
しかし、岩がたいへんかたく、途中であきらめてしまいました。
「何としてもトンネルをほるんだ。」
父のこころざしをついだ養子の林勇蔵は、10年後ふたたびトンネルをほり始めました。
勇蔵は、はじめにそく量を行い、炭坑のこう夫をやとってトンネルの出口からほり始めました。
途中、とくにかたい岩にぶつかったときは、鉱山のこう夫をやといましたが、それでも5日間で3センチメートルしかほることができませんでした。
このとき、多くのこう夫はやめてしまいました。
残された勇蔵は、ひとりでのみとつちを手に岩に向かいほり続けました。そんな勇蔵のすがたを見たこう夫たちは、またいっしょにほり始めました。
勇蔵はトンネルの中にたまるガスをぬくためのあなをほりました。
こうして、5か月半かかってトンネルは完成しました。
仁保津こん田
トンネルができると、次は、山の向こうにため池をつくり、高台には水を引くための用水路をつくりました。
用水路の長さは2500メートルにもおよび、木のしげっていた高台は1154アールの水田に変わりました。
「ありがたい。勇蔵さんは神様じゃ。」
新しい水田で取れた米を手にした農民は、大喜びしました。
この勇蔵が開いた水田は“仁保津こん田”とよばれ、農民は水害の心配をしないで、米作りができるようになりました。