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「 郷土読本 ふるさと大内 」 へ ようこそ!! 

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1.わたしたちのふるさと大内

(4)大内と大内氏

 わたしたちが今すんでいるこの大内と、たいへん関係のふかい大内氏の祖先は、琳聖太子だと伝えられています。
 時は、推古天皇のころ(611年)、百済の国(挑戦)から一そうの船が日本に向かってやってきました。やがて船は、多々良の浜辺につき、一人の男がおりたちました。
「ここが、ゆめにまでみた日本か。今日はここで休んで、明日、あこがれの聖徳太子にあいに行こう。そして、日本に長くいることをおねがいしよう。」

 こうして琳聖太子は、ねがいをうけいれてもらい、大内の土地をさずかり、大内に住むようになりました。そして、琳聖太子の子孫がのちに、大内の土地の名をとって大内と名のるようになりました。そのころの豪族の中には、すんでいるところの名をとって自分の名にする者が多かったのです。

 これらのことは、はっきりと記ろくに残っていないため、たしかではありませんが、大内氏のことについて書きのこされている書物の中に、琳聖太子のことがでていることから、琳聖太子が大内氏の祖先だろうといわれるようになったようです。それで、のちに、乗福寺の門前に、太子の九重の供養塔をたてました。この塔は、明治八年に、寺のうら山にうつされています。



ふるさと大内

 大内にとどまった太子は、まず、氷上に興隆寺をたてました。この興隆寺は、妙見社ができてますますさかえ、大内文化のもととなりました。そして、大内文化がとてもさかえた大内弘世の時には、山口だけでなく、まわりの土地もおさめるようになり、城を山口にうつしました。弘世は、信仰する心をだいじにし、仁平寺の本堂や、妙見社のしゅうりなどをし、たくさんの人をまねいて、いろんなまつりごとをしました。弘世の子である義弘のころになると、九州の方まで力をのばしてきて、大内氏の名が広くしられるようになりました。

 弘世をはじめ、大内氏代々のとのさまは、和歌をよくつくり、書道などにもすぐれていました。また、、明(今の中国)などと、取り引きをさかんにし、くらしもゆたかでした。このさかえた文化とゆたかさは、そのころほかにならぶものがなかったといわれています。


ふるさと大内


 今、大内にあるお寺や神社は、ほとんど大内氏にかんけいしているものばかりです。
 このように、大内文化のはなをさかせた弘世や重弘のはかは、乗福寺のうら山に、琳聖太子の塔とならぶようにたち、今の大内を見まもっています。



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