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6.ふるさとにつくした人

(3)上田鳳陽(うえだほうよう)先生

 鳳陽先生は、山口中学のもとをつくった人であり、山口高等商業(こうとうしょうぎょう)学校を育てた人だといわれています。

 本当の名前を、上由茂右衛門継明(もうえもんつぐあき)といいます。小さいころから、勉強をするのがすきで、大きくなってからは、荻の明倫館というところで勉強をし、のちには、外国へ3度も行ってむずかしいことも学んできました。このように、先生は、いろいろと勉強しながらも、地方に学校がなく、勉強のための本が少ないことをしんぱいし、金持ちの人の所になんどもおねがいに行き、今の後河原(うしろがわら)に山口講堂(やまぐちこうどう)という塾(じゅく)のようなものを開きました。そして、たくさんの本を集めました。学問をしたいという人たちが、だんだんとここに集まり、りっぱな学校になりました。先生は、とのさまからも大事にされ、とのさまが、江戸から帰られたときにはかならずおみやげに、本をいただいていました。先生のほんの読み方は、たいへんねっしんで、親こうこうの話を読むとなみだを流し、声をたててなき、合せんの話になるとつくえをたたいてはげまし、悪いものがでてくるとしかりとばすので、近所の人が、なにごとかと、かけつけてくることもたびたびあったということです。また、人をとても大切にする人でした。人が先生の家をたずねていけば、気持ちよくむかえてごちそうをし、帰る時にはかならず遠くま遠くまでいっしょに行き、わかれたあと道ばたの石にこしかけて、すがたが見えなくなるまで見おくられたということです。こんなお話もあります。ある日、先生が湯田の温泉(おんせん)に入っていると、1人のものしりがきて、学問のじまん話をしはじめました。とこるが、先生がいらっしゃることに気がつき、おふろに入るのもそこそこににげるようにして帰っていったということです。


ふるさと大内

 そのころ山口をおさめていた毛利のおとのさまが、萩から山口にうつってくると、萩の明倫館(めいりんかん)で勉強をしていたせいとのほとんどが山口にうつってきて、山口講堂で学ぶようになりました。名まえも山口明倫館とかわりました。明治になって、山口講堂は中学校となり、明治27年には山口高等(こうとう)学校とよぶようになりました.そして、明治38年には、山口高等商業(こうとうしょうぎょう)学校となりました。

 鳳陽先生は、年をとられてからは、大内の御堀にある家ですごされました。御掘の国道262号線ぞいにあるむかしの福田屋(外郎を売っていた店)のそばには、先生の石碑(せきひ)がたてられいます。また、先生のおはかは、乗福寺のうら山にあります。



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