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「 郷土読本 ふるさと大内 」 へ ようこそ!! 

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1.わたしたちのふるさと大内

(3)大内のあけぼの

 今、わたしたちがすんでいる大内の里は、どのようにひらけてきたのでしょうか。
「おっ、これは、大むかしにつかっていたやじりだぞ。」
昭和26年の冬、山口大学の人たちが、長野宮ノ馬場あたりをしらべたところ、石器時代につかわれていた石のおのや、石のやじりや土でつくったつぼのかけらなどが出てきました。


ふるさと大内

 また、ここから、四つのおはかのあともみつけられました。その中のいちばん大きいものを大塚古墳といいます。このほかにも、矢田の生森古墳や氷上・金成・御堀などからも古墳がみつかりました。


ふるさと大内

 このことから、大内は、長野・氷上・御堀の山すそからひらけていき、大むかしから人がくらしていたことがわかりました。そのころ、人びとは、山でけものをとり、仁保川で魚やかいをとってくらしていました。そして、田で米をつくるようになると、だんだん平野地である矢田や中川(今の出合あたり)にすむようになってきました。地名として書物の中にでてきたのは、平安時代のはじめに、源順(みなもとのしたがう)という人が書いた本の中です。矢田郷(今の矢田・小野・すげ内あたり)と仲河郷(今の氷上・御嶽・問田あたり)という地名がのっています。一つの郷にはおよそ1400人ぐらいの人がいたということですから、矢田郷と仲河郷をあわせて、そのころすでに、大内には、2800人ぐらいの人がすんでいたということになります。

 このように、地いきを「郷」とよぶようになったのは奈良時代ごろからですが、それまでは、田や畑をわけて、「里」といっていました。50けんを一つの里ときめ、61けんいじょうになると二つの里にわけていました。里には、一人の里長がいて里のいろいろなおせわをしていました。のちに、もっとわかりやすくするために、36町を一里としてわけるようになりました(条里制)。里と里とのさかいは、みちや水路やあぜなどでわけていました。今でも、中矢田・長野・下千防のあたりに、むかしの条里のあとがわずかにみられます。

 このようにして、ひらけてきた大内も、長い時代を通してずいぶんかわってきました。今では、国道262号線をはじめ、中国自動車道や宮野バイパスも大内をよこぎり、道路のそばには工場もでき、住宅もふえてきました。


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