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6.ふるさとにつくした人

(4)金津治兵衛(かなつはるべえ)

 「おうい、仁保川がはんらんしそうだぞう。」
 「ああ、この雨じゃあ、また由や畑がやられてしまうのう・なんとかしなきゃあ。」
 むかし、矢田村では、大雨のために仁保川がたびたびはんらんして、大ひがいうけていました。


ふるさと大内


  こんなことではいけないと、大雨に立ち向かっていった人が、金津治兵衡という人です。
 治兵衡は、矢田村に生まれました。20さいになる前からしょう屋をつとめ、年をとってからも、自分のざいさんをなげうってまでも、村の人たちのためにつくした人です。
 上長野から殿河内に通じる土手は、むかし矢田が大こう水にあった時に、治兵衛がきずいたものです。このあたりは、大雨のたびにていぼうはこわれ、はんらんした水は一度にどっと矢田村におしよせてきました。田が流され、家が流され、ひとばんのうちになにもかもめちゃめちゃになってしまうようなことがたびたびありました。そのたびに、なんとかしなくてはと思っていた治兵衡は、いばらをきり、土をはこんで土手をきずく作業をはじめました。村の人がわらうのもかまわずもくもくと続けました。からすがなかない日はあっても、治兵衛のすがたが見えない日はありませんでした。わらっていた村の人たちも土手がだんだんにきずかれるようすを見て、そのこん気のよさに頭をさげて通るようになりました。なかには、手伝う人もでてきました。こうして、ついに、土手ができあがったのです。村の人たちは、土手ができた記念に、土手にそって松の木をうえました。

 このほかにも、治兵衛は、矢田村の生活が、くるしくなってきたのをみて、みんなにけんやくをするようによびかけました.きぬの着物を着ないこと、こうもりがさをささないこと、しばいなどの遊びごとをしないことなどをやくそくさせ、それをてっていてきにまもらせました。それで、村の人たちは、治兵衛に、にらまれることをいちばんおそれていました。でも、そのようにきびしくしたおかげで、村の生活は少しずつよくなってきました。


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   こんな治兵衡のよきそうだんあいてとなった人に、長野村の大溝松太郎(おおみぞまつたろう)という人がいます。この人も、明治36年に72さいでなくなるまで、村のためにつくした人です。松太郎は、小さい時に親とわかれましたが、18さいの時から村のしょう屋になり、のちには、村会議員になった人です。東山から流れ出る水を仁保川にさそうために、新川をつくって、水がいから村をすくいました。
 このように、自分が正しいと思うことと、また、みんなのためになると思うことは、ゆう気をもってさいごまでがんばりぬくというすがたを、この2人から学びとることができます。


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