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4.学校のうつりかわり

(3)大内小学校のシンボル・プラタナス

 大内小学校には、運動場の中に、3本のプラタナスの木がありました。台風でつぎつぎにたおれ、今はもうありませんが、うえられてから70年いじょうもたって、大きくえだを広げたプラタナスは、そのころの子どもたちにいろいろな思い出をつくったようです。
 3本のプラタナスは、明治42年に、こうどうを新しくたてたきねんとしてうえられました。木のなえは、農業試験場のしんぱいで、外国からとりよせたもので、そのころ山口ではめずらしいしゅるいでした。明治29年に、問田・御堀・双鯉の3つの学校がいっしょになりましたが、3本のプラタナスには、この3つがしっかりと手をつないでいてほしいというねがいがこめられていたということです。時には運動をするのにじゃまになるから切りたおしたら、という意見が、新しくこられた先生などからでましたが、ぜひのこしておいてほしいという卒業した人たちからの願いでのこされていました。さいごのプラタナスがたおれたのは、昭和51年でした。


ふるさと大内


大内小学校の思い出   金子君江(昭和12年卒業)

 入学式の日、母に手をひかれて、大内小学校の門をくぐったのは、ついこの間のようですが、あれから、40年いじょうの月日が流れました。
 今、目をつぶれば、そのころのふくそうや先生がたのお顔や運動場のようすなどが、つぎつぎと頭にうかんできます。入学式の日、黒いもんつきの着物に、あずき色のはかまをつけてもらった時には、きゅうにおとなになったような気がしたものです。大手をふって校門をくぐった時、さいしょにむかえてくれたのが、大きくえだを広げたプラタナスでした。この時から、わたしの小学校の思い出はプラタナスときりはなしては考えられないものになりました。長い長いはかまをはいて、きれいだった先生がたにあいさつするのも、この木の下だとなんとなく元気のよい声がでたように思います。そのころのふくそうは、今ごろのようにいいものではありませんでした。きものにおびをむすんだり、白いエプロンをつけたりして、かたには、ぬののかばんをかけて登校していました。そして、いつもプラタナスの下を通って教室へはいっていました。
 そのころのプラタナスは、こうどうのそばに3本が手をつなぐようにしてたっていました。1年生の時、プラタナスの木をかこみ、歌のだいすきな先生となかよく歌ったことや、2年生の時、おとぎ話のじょうずな先生から、動物村やのりもののお話を聞いたのも、なつかしい思い出です。5・6年生ごろは、運動がさかんで、山口市の運動会などにでるため、れんしゅうを夕方暗くなるまでやりました。プラタナスの木の根のところに、小さなあなをならべてほり、スタートのれんしゅうをしたものでした。また、男の子が、ボールなげをして、ボールがえだにかかってこまったことや、下のえだにぶらさがって遊んだことなども思い出されます。このプラタナスはわたしたちが2・3人で手をつないでやってひとまわりするくらい大きいものでした。
 大地にどっしりと根をはり、大空に向かってぐんぐんと力強くのびていくプラタナスのように、これからも元気でがんばっていこうと思います。


ふるさと大内


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