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「 郷土読本 ふるさと大内 」 へ ようこそ!! 

  • 大内小学校
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4.学校のうつりかわり

(1)大内小学校・大内南小学校のなりたち

 明治になって小学校のようなものができるまでは、子どもたちは寺子屋で習字などをならっていましたが、明治5年に、全国に学制というものがひかれて、大内にも学校らしいものができました。

 まず、明治6年に、問田の光厳寺をつかって、問田小学がひらかれました。ついで、明治7年に、御堀に御堀小学・長野の通夜堂(長野八幡宮)に長野小学・矢田の光円寺に矢田小学が、それぞれひらかれました。どの小学も、先生が1人か2人で児童が50人から70人ぐらいいました。明治18年には長野小学と矢田小学がいっしょになって、双鯉(そうり)小学校が長野にできました。

 そして、明治25年に、問田・御堀・双鯉小学校をいっしょにして「大内尋常小学校」としました。しかし、しばらくは、これまでの場所で勉強していました。明治29年に、今の大内小学校のところに新しい校舎ができ、いっしょに勉強できるようになりました。そのころの児童の数は、およそ450人ぐらいでした。今のように「山口市立大内小学校」というようになったのは、大内町が山口市といっしょになった昭和38年のことです。 



ふるさと大内


 大内小学校ができて100年いじょうもたち、3階だての校しゃもたち、児童の数も1000人をこえ、山口市の学校の中でいちばん多い学校となりました。そこで大内南小学校をつくることになり、今のように2つの小学校になったのです。

 わたしたちの小学校がどのようにかわってきたのかを、家の人や学校の上を知っておられる近所の人に聞いたり、「郷土読本ふるさと大内」をみたりして、しらべみましょう。


ふるさと大内


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