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6 ふるさとにつくした人

(1)植木平之允(うえきへいのじょう)

 大内小学校のげんかんの前のいぶきの木の下に石碑(せきひ)がたっています。これは、ふるさとや学校ためにつくした植木平之允をたたえる石碑です。

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 平之允は、萩で生まれました。大きくなると、大学で土木の勉強をし、そつぎょうしてからは、土木かんけいの仕事をしました。エ事のようすをみるために外国にもいきました。そして、21さいの時には、小鯖村(おさばむら)から右田村(みぎたむら)にぬける道をつくるためのトンネルをせっけいしました。

 平之允は、土木の仕事をしながら、大内村の教育にもずいぶん力を入れました.大正8年には、小学校へたくさんのお金をきふしたり、勉強したくてもできないまずしい人のためにお金を出してあげたり、いっしょうけんめいに勉強し、りっぱなせいせきをとった人にはほうびのお金をあげたりしました。また、大正13年には、ばくだいなお金を出して小学校に理科室をたて、理科の勉強にいる道具もそろえました。そのころでは、この理科室のせつびはとてもよくととのっているということで、ほかの県からもたくさんの人が見にこられるほどでした。今は、家にかえってもだれもいない大内小の子どもたちのための「うえき学級」になっています。この学級の名まえも植木平之允からもらったものです。

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 このほかにも、大正9年から昭和4年までの10年間にわたって、よいせいせきで高等科(こうとうか)をそつぎょうした人の中から何人かえらび、大阪や九州の方まで勉強のためのりょこうをさせました。このりょこうを「植木りょこう」といっていました。そして、これにあらばれることを、親も子もたいへんほこりにしていました。平之允はとても子どもがすきで、りょこう中の子どもからたよりがくると、一人一人にていねいに返事を書いておくっていたそうです。
 昭和7年3月に、病気でなくなりましたが、ふるさとのためにいろいろとつくしたことに感謝する気持ちをこめて、昭和9年に、石碑がたてられたのです。この石碑を「植木平之允翁頌徳碑(おえきへいのじょうおうこうとくひ)」といいます。
 大内小学校の図書室には、植木平之允の大きな写真がおいてあります。



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