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1.わたしたちのふるさと大内

(5)益田やしき

 大内氏のあとをついで山口をおさめた毛利氏のけらいに、益田景祥(かげよし)という人がいました。景祥は、毛利氏から大内の土地をあたえられ、おさめるようになると問田にすみ、けらいたちを近くに住まわせました。そのため、問田あたりは、小さな武家町としてさかえました。

 景祥は、十八さいの時、朝鮮に行ってとてもよく戦いました。そのほうびとして、豊臣秀吉というとのさまから、「早舟の茶わん」と「藤原定家の色紙」をいただいたということです。この茶わんには、こんな話があります。

 秀吉がだいじなお客をもてなそうとしたとき、茶わんが一つたりませんでした。こまった秀吉は、いろいろ考えたすえ、朝鮮の茶わんがいちばん美しいということで、けらいに、早舟で朝鮮に行かせ、もちかえらせた土で茶わんをやかせました。この茶わんは、天下に二つしかないものだといういわれの深い茶わんだということです。

 景祥がなくなったあとも、益田家の人は、だいじなくらいにつき大内をおさめました。そして、米のとれ高を多くするために、新しい田をつくっていきました。しかし、とれ高をあげるために、農民のくらしについてもきびしいことをのぞみました。そのために、ひゃくしょうがさわぎをおこし、清介・角左衛門という二人の少年がいのちをなげうって、村の人たちの苦しみをうったえるという事件までおきました。

 そのころ、「益田やしき」といわれていたやしきは、今はもうまったくのこっていませんが、やしきがあった問田にはその石がきがわずかにのこっています。



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