このページのトップへ

「 郷土読本 ふるさと大内 」 へ ようこそ!! 

  • 大内小学校
  • 大内小学校
  • 大内小学校
  • 大内小学校
  • 大内小学校
このページのトップへ

5.うけつがれているもの

(2)ふるさとにあるお寺

 大内には、神社だけでなく、お寺もたくさんあります。お寺により、できかたやまつってあるものなどがちがいますが、大内の人々の心や文化をささえてきました。今は、もうなくなっているものもありますが、むかしさかえていた八つのお寺をしょうかいしましょう。おうちの人といっしょに大内にあるお寺めぐりをしてみましょう。


ふるさと大内


<氷上興隆寺>−氷上− 天台宗

 今は、わずか仏殿(ぶつでん)と妙見社だけがのこっていますが、むかしは、氷上に、興隆寺というとてもりっぱな大内氏の氏寺がありました。

 この寺は、大内氏の祖先といわれている琳聖太子がたてたものだと伝えられています。お寺には、お坊さんが五百人くらいおり、山全体のお寺の数が百あまりもあったそうです。大内茂村の時、妙見社をたててますますゆうめいになりました。そのころの妙見社は、ふつうの人はおまいりできないくらいりっぱなもので、毎年二月十二・十三日には、ここで「二月会(にがつえ)」という大がかりな式がおごそかにおこなわれていました。このように、大内文化をささえてきたお寺としてさかんであった興隆寺も大内氏の力が、弱くなっていくとだんだんおとろえてきました。のちに、行海(ぎょうかい)というお坊さんがカを入れ、さかんになりましたが、毛利氏のころになると、わずかに六つのお寺をのこすだけになりました。明治になってからは、大内時代のたてものは、ほとんどなくなりました。寺にあった大切な品物やきろくは、たびたびの火事でほとんどやけてしまいましたが、大内家の刀や楽器などは、山口博物館においてあります。


ふるさと大内


<氷上興隆寺の鐘>−氷上− 天台宗

   今、興隆寺のあとをたずねると、妙見社の大きな「かね」が目につきます。これは、大内義隆がおくったもので、高さが、およそ二メートルもあり、かざりがたくさんついていて、朝鮮のかねのようすがよくわかります。このかねは、国の重要文化財になっています。


ふるさと大内


<乗福寺>−御堀− 臨済宗

 大内重弘が禅(ぜん)のお寺としてたてたといわれています。たてものの数が百二十六もあり、興隆寺とならんで大きなお寺でした。火事になってやけてしまい、十年あまりそのままになっていましたが、大内義隆がたてなおしました。しかし、興隆寺と同じように、大内氏がほろぶと、あれはててきました。今あるお寺は、昭和五十五年にたてられたものです。

 境内には、もみじの木がたくさんあり、秋には、美しく色づいています。寺のうらには、琳聖太子の供養塔(くようとう)や大内弘世や大内垂弘のおはかがあります。


ふるさと大内


<仁平寺>−管内− 曹洞宗(そうどうしゅう)

 1151年に、近衛天皇(このえてんのう)がたてたといわれています。仁平元年にできたので、仁平寺という名がついたということです。大内氏の力がある時には、興隆寺や乗福寺とともにりっぱなお寺でした。しかし、大内氏がほろんだあとは、観音堂(かんのうどう)だけとなり、明治3年には、小鯖(おさば)の禅昌寺(ぜんしょうじ)にひきとられました。そのため、はじめは天台宗(てんだいしゅう)でしたが曹洞宗(とうどうしゅう)にかわりました。その後、明治16年にたてられましたが、台風でたおれたり、またたてなおされたりしました。今の仁平寺は、およそ500メートルはなれた東がわの道路に新しくたてなおされています。そして、ここは、集会所としても地区の人に利用されています。

 このように、今はもうむかしのおもかげはありませんが、大内氏の時代にとてもりっぱだった興隆寺・乗福寺・仁平寺は、大内文化をささえた3大寺といわれています。



<地蔵院>−小野−曹洞宗

 1397年に大内義弘がたてたものです。中には、とても大きなお地蔵様があります。このお地蔵さまは、恵心僧都(えしんそうず)がつくったもので、大内弘世が京都のまねをして山口のまちをつくろうとした時、六地裁の1つとしてここにおいたと伝えられています。しかし、大正14年に、火事にあい、やけてしまいました。今のお地蔵さまは、昭和2年にできたものです。
 このお地蔵様は、子安地蔵ともいわれ、いろいろな所から安産のお願いをしにおまいりにこられます。


ふるさと大内


<多聞寺>−開田−真言宗(しんごんししゅう)

 703年に大内茂村がたてたといわれています。はじめのお寺は、かみなりや火事にあい、やけてしまいましたが、のちにたてなおされました。大内氏がさかえたころは、大きなお寺で、大内義隆の時には、寺の境内でおさけをのむ会を開いたり、楽器をならしたり、生きものをころしたりしてはいけないというようなきまりも作っていました。今は、境内もあれはててむかしのおもかげはありませんが、むかしからある大きなしだれ桜の木はのこっており、毎年きれいな花をつけているということです。


<光厳寺(こうがんじ)>−問田− 浄土宗(じょうどしゅう)

 益田孫左衛門(まござえもん)という人がたてたものです。はじめは、玉泉山光勝院(ぎょくせんざんこうしょういん)といっていましたが、明治3年に冷厳寺といっしょになって、光厳寺となりました。

 お寺の山門の前には、大内の伝説にある「えんこう地蔵」がまつってあり、いつも花や水がきれないようにおいてあります。

ふるさと大内


<妙鑑寺(みょうかんじ)>−矢田−曹洞宗

 1342年にたてられたころは、西光寺といっていました。大正9年に火事にあいましたが、つぎの年にたてられたものが、今のこっています。
 お寺としては、大内でいちばん新しいたてものです。


ふるさと大内


<光円寺>−矢田−真宗

 大内小学校の近くの国道262号線のそばにあります。智淵房慶乗(ちえんぼうけいじょう)もとは、天台宗でしたが、慶乗が、氷上山から帰ったのち西本願寺(にしほんがんじ)に入ったため、浄土真宗にかわりました。
 ここには、命をかけて村のためにつくした二義少年のひとりである角左衛門の位はい(なくなった人を仏だんにまつるための木のふだ)がまつってあります。


ふるさと大内

山根観音像(子どもの絵)

ふるさと大内

このページのトップへ