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6.ふるさとにつくした人

(2)二義少年

 長野八幡宮のむかいがわに小さなお堂があります。このまわりの人たちは、これを、阿弥陀様(あみださま)とよんでいます。毎年8月のお盆(おぼん)のころになると、近所の人たちが集まって、たいこのひびきにあわせ、夜のふけるのもわすれて、盆おどりをおどります。このお堂にまつられて、みんなから阿弥陀様といわれているのは、むかし、命をかけて長野の人たちをくるしみからすくった人の一人である常田角左衛門(つねだかくざえもん)のことなのです。お堂のあるところは、角左衛門がすんでいたやしきのあとです。


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 このお堂から少し行ったところに、角左衛門といっしょに村人をすくった松原清介(まつばらせいすき)の家があります。ここでも、清介のたましいをなぐさめるために、べつの日に盆おどりをおどっています.では、この2人は、村の人たちのためにどのようなことをしたのでしょう。

 今から250年もむかしのことです。そのころ長野をおさめていた益田(ますだ)のとのさまはあれた土地をたがやし、新しい土地をどんどんつくらせていました。ところが、けらいの中に悪い者がいて、せっかく新しい土地をつくってもひゃくしょうの手には米つぶ一つもはいらないじょうたいでした。その上、むちゃなことを要求(ようきゅう)したり、おさめる米が少ないといっては、ろうやの中にいれたりしたので、村の人たちはこまってしまいました。苦しさをがまんしてきた村の人も、とうとうがまんしきれなくなって、52人のだいひょうをえらんで、おそるおそる代官所に、こまっていることをもうし出ましたが、聞き入れてもらえませんでした。

 このようすをみて、立ち上がったのが清介と角左衛門の2人の少年でした。2人はひそかにあっては、村の人たちをすくう方法を考えましたが、なかなかいいあんがうかびませんでした。ところが、ある日のこと、いろいろな所をまわり歩き、大内にとどまっていた国の役人に出会いました。その人にたずねられるままに、村の人たちの苦しみを、なみだを流しながら話しました。役人は、だまって聞いていましたが、2人の真心にむねをうたれ、村をすくうには、直訴(おとのさまにあってちょくせつお願いすること)しかないことを教え、自分から筆(ふで)をとって、うったえの手紙をかきました。しかしそのころは、直訴したものは死けいにされるというきびしいきまりがありました。それでも2人は、さいごの方法として、直訴することにしました.いよいよ、2人は、村の人たちをすくうために、萩へいそぎました。こうして、村の人たちの苦しみは、とのさまの目に止まり、悪いけらいはおい出され、村はすくわれました。
 でも、きまり通り、2人は、荻城の近くの首切打場で死けいにされてしまいました。この時、清介は21さい、角左衛門門は19さいという若さでした。年わかい2人の少年は、自分の命とひきかえに、村の人たちをすくったのです。


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 この村の守り神様である長野八幡宮の入り口には、この二義少年のことを後の世に伝えるためにたてられた大きな石碑があります。


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