とびら●ホーム・表紙3.交通のうつりかわり
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3.交通のうつりかわり

 大内氏が山口をおさめていたころは、山口から萩に行く道と山口から大内を通って防府へ行く道がおもな道でした。そのころは、防府に国分寺(仏教の力を全国に広めるために各地につくられたお寺)などがあり、行き来することが多かったからです。道のそばには、道しるべとしての一里塚が一里(およそ4キロメートル)ごとにありました。大内にも、氷上山興隆寺の門前に一里塚がありました。その一里塚には、「荻まで8里・三田尻まで4里」とかいてあったそうです。

 山口市では、明治41年に小郡と湯田の間にはじめて鉄道がひかれました。これを、軽便鉄道(けいべんてつどう)といいます。大正2年になって山口と小郡の間を国鉄が通るようになると、軽便鉄道はなくなりましたが、これまで荷馬車ではこんでいたにもつを鉄道でおくることができるようになりました。

 また、道路では、昭和になって、防府の丸満自動車商会のバスが山口と防府の間を行き来するようになりました。1日10おうふくでしたが、山口と矢田の間も3おうふくし、大内の交通もずいぶんべんりになってきました。そして、昭和6年5月には、鉄道省のバス(省宮バス)が山口と三田尻の間を走るようになりました。昭和8年になると、国鉄バスが東萩まで行くようになり、大内でとれた米やむぎや野さいなどをはこぶのにとてもらくになりました。これまでは、荻に行くのに歩いて1日かかり、鉄道でもおよそ4時間かかっていたのが、省宮バスを利用すると、2時間50分でいけるようになりました。三田尻まで36分、山口までわずか10分で行けるようになり、山口や防府町会社や学校へかよう人や、農業試験場や自動車学校へ来る人もたくさん利用していました。



ふるさと大内

 今走っている山口市営バスは、昭和28年から運転されはじめました。そのころ大内を通る市営バスは、仁保・矢田線と仁保・山口線の2本がありました。昭和24年になると、防長バスが、大内町と秋穂町を走るようになりました。そして、昭和38年に国道262号線ができると、大内の交通は、もっとべんりになってきました。




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