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 資料 白石地区探訪マップ 白石地区青少年健全育成協議会平成14年(2002)8月
画像資料

山口客館跡(やまぐちきゃっかんあと)駅通り1丁目 今道(いまみち)
 駅通(えきどお)り1丁目にある山口地方裁判所(やまぐちちほうさいばんしょ)の玄関前(げんかんまえ)の中庭(なかにわ)に「山口客館跡」と印(しる)された石碑(せきひ)があります。幕末(ばくまつ)、毛利藩主(もうりはんしゅ)毛利敬親(たかちか)は萩(はぎ)から山口への藩庁(はんちょう)移転(いてん)を決め、今の山口地方裁判所の場所に「山口客館」を建(た)て、山口を訪(おとず)れた貴賓(きひん)をもてなしました。
 ○どんな人が泊まったんだろう。
 ○どれくらい部屋があったのかな。
 ○どんな料理がでたんだろうな。
 ○毛利敬親ってどんな人だったんだろう。
 
今道小学校跡(いまみちしょうがっこうあと)駅通り2丁目 今市(いまいち)
 白石小学校(しらいししょうがっこう)の最初の名前は「山口第一小学校」といい、明治(めいじ)5年「山口客館」(やまぐちきゃっかん)を校舎(こうしゃ)にして創立(そうりつ)されました。そして、その後(ご)今道小学校と名前を変えました。明治9年今市町に校舎(こうしゃ)を新しく建てました。昭和4年、現在の東白石(ひがししらいし)に校舎を新しく建てました。これが、現在の白石小学校の始まりです。
 ○山口第一ということは第二もあったのかな。何年続いたのだろう。
 ○今市小学校は何年建っていたのかな。
 ○なぜ、今市という町名がついたのでしょう。それはいつのころかな。
 
福部童子(ふくべどうじ)の祠(ほこら) 駅通り2丁目 今市(いまいち)
 今市町内には、土地(とち)の人が、「福部さま」と呼(よ)んでいる祠(ほこら)があります。むかし、菅原道真(すがわらみちざね)が九州(きゅうしゅう)の地に政敵(せいてき)によって流された後、その子の菅原福部は父を慕(した)って山口まで下(くだ)ってきましたが、この地で病(やまい)に倒(たお)れ、父の御簾天神(すだれてんじん)を仰(あお)ぎながら亡(な)くなりました。その遺骸(いがい)を葬(まつ)った跡(あと)が、この祠(ほこら)であると伝えられています
 この祠の前でたき火をたいて尻をあぶると流行病(はやりやまい)にかからないといわれています。
 荒高には福部童子の忘れた刀を埋めたといわれるところに祠があり「森さま祭り」というお祭りが今に伝えられています。
 ○菅原道真ってどんな人だったんだろう。
 ○なぜ九州に行かなくてはならなかったんだろう。
 ○なぜ神様として祭られているのかな。
 ○御簾天神ってどんな神様なのかな。
 ○どんな病だったんだろう。
 ○祠は誰が世話をしているのだろう。
 ○祠の中には何があるんだろう。
 
正福寺(しょうふくじ)のカイズカイブキ  駅通り2丁目 今市
 山口県指定天然記念物(やまぐちけんしていてんねんきねんぶつ)
 正福寺は天文年間(てんもんねんかん)の創建といわれ、慶長(けいちょう)12年(1607)に現在地に移転(いてん)しました。このイブキは、その当時(とうじ)植(う)えられたもので、山口県内にあるイブキとしては最も大きいものといわれています。この樹(き)は、植物学者(しょくぶつがくしゃ)の中井武之進(なかいたけのしん)博士(はくし)が昭和14年12月に調査し、カイヅカイブキと名づけました。
 ○正福寺にはどんな仏様が祭ってあるのかな。
 ○誰が最初に建てたんだろう。
 ○中井博士ってどんな人だったのかな。
 ○なぜイブキを植えたんだろう。
 ○大きいということだけど高さは何mあるんだろう。
 ○天文年間って何があった年なのかな。慶長という時代にはどんなことがあったのかな。
 
八坂神社御旅所(やさかじんじゃおたびしょ) 駅通り1丁目 今道(いまみち)
 八坂神社は、1369年、山口の開府(かいふ)の祖(そ)−今の山口市を最初に作った−大内弘世(おおうちひろよ)が、京都祇園社(きょうとぎおんしゃ)から勧請(かんじょう)して、創建(そうけん)したもので、「山口の祇園さま」と呼(よ)ばれています。祇園祭(ぎおんまつり)は、山口でもっともにぎやかなお祭りで、裸(はだか)ん坊(ぼう)御輿(みこし)の愛称(あいしょう)があります。その御輿を安置(あんち)するところが御旅所(おたびしょ)で、御神幸(ごしんこう)が行われる前に、社前(しゃぜん)で行われる「鷺舞」(さぎまい)は600年の伝統(でんとう)を持(も)ち特に有名(ゆうめい)です。
 ○八坂神社はどんな神様を祭っているのかな。
 ○大内弘世ってどんな人だったのかな。どんなことをしたのかな。
 ○なぜ山口に八坂神社を建てたんだろう。
 ○御輿の重さはどのくらい。
 ○鷺舞の由来は何かな。
 ○祇園という名前はどうしてついたのかな。
 ○祇園祭はどんなことが行われるのだろう。始めは?終わりは?途中は?
 
安部本陣之跡(あべほんじんあと)道場門前(どうじょうもんぜん)2丁目 下道場門前
 道場門前と西門前(にしもんぜん)をつなぐ安部橋(あべはし)の南、一の坂(いちのさか)川沿(ぞ)いに「安部本陣之跡」と印した石碑(せきひ)があります。この安部橋の側(そば)に山口の旧家(きゅうか)安部家がありました。安部家は、江戸時代(えどじだい)富豪(ふごう)をもって知られ、江戸時代の本陣(ほんじん)として、毛利藩主一族の宿所(しゅくしょ)にも使用されていました。
 ○本陣とはどんな役割をしていたのかな。
 ○安部家はどんな商売をしていたのだろう。
 ○今はその子孫はどこに住んでいらっしゃるのかな。
 ○なぜ道場門前というの。なぜ、西門前という名前なの。
 
枕流亭址(ちんりゅうていあと)道場門前2丁目(下道場門前)
 道場門前(どうじょうもんぜん)と西門前(にしもんぜん)をつなぐ安部橋の少し上流に「枕流亭址」の石碑(せきひ)があります。ここは安部家の離れ屋敷(はなれやしき)でした。幕末(ばくまつ)、薩長連合(さっちょうれんごう)の協議(きょうぎ)のために来山(らいざん)した西郷隆盛(さいごうたかもり)ら薩摩藩士(さつまはんし)と、木戸孝允(きどたかよし)ら長州藩士(ちょうしゅうはんし)が、この枕流亭の二階で密議(みつぎ)を重ねたとされています。この枕流亭は、その後、幾度(いくど)か移築(いちく)されましたが、現在は、香山公園(こうざんこうえん)内に保存(ほぞん)されています。
 ○枕流亭って名前はどこからつけられたんだろう。
 ○西郷隆盛ってどんな人だったのかな。
 ○木戸孝允ってどんな人だったのかな。
 ○薩長連合ってどんなことだったのかな。
 ○なぜ何度も移築されたのだろう。
 
朧の清水(おぼろのしみず) 中央5丁目 中清水(なかしみず)
 大内時代(おおうちじだい)山口には三つの名水(めいすい)があったといわれています。それは、「朧の清水」、「藤の下水」(ふじのしたみず)、「柳の水」(やなぎのみず)です。「朧の清水」は、中清水町内の県道宮野(みやの)、大歳(おおとし)線沿(ぞ)いにある湧水地(ゆうすいち)です。昔(むかし)は、この「朧の清水」から、こんこんとわき出る清水が小池(こいけ)をつくり、この地域(ちいき)の潅漑(かんがい)用水や、生活用水として利用(りよう)されていました。
 ○名水の名前をつけた人は誰なんだろう。なぜ3つなのか。
 ○朧ってどんな意味なんですか。
 ○今はどうなっているのだろう。
 ○どんな味なのかな。
 
長寿寺(ちょうじゅじ) 本町1丁目 荒高
 昔は慈観堂(じかんどう)という千躰仏(せんたいぶつ)安置(あんち)の堂でした。大内義興(おおうちよしおき)の病気平癒(びょうきへいゆ)を祈(いの)って長寿寺と改称(かいしょう)されたといわれています。
 幕末(ばくまつ)の頃(ころ)井上馨(いのうえかおる)を総督(そうとく)とする「鴻城隊」(こうじょうたい)の本部(ほんぶ)が置(お)かれ、この寺を屯所(とんしょ)として使用しました。
 ○千躰仏ってどんな仏さまかな。今もあるのかな。
 ○そもそも何のために建てられたんだろう。
 ○大内義興ってどんな人だったんだろう。いつ頃の人ですか。
 ○井上馨ってどんな人だったんだろう。
 ○鴻城隊はどんな働きをしたんだろう。いつまで活動したのかな。
 
龍王社(りゅうおうしゃ)旭通り2丁目 龍王
 龍王町内、一の坂沿(ぞ)いに龍王会館(りゅうおうかいかん)があります。そのすぐ側(そば)に「龍王社」(りゅうおうしゃ)という社(やしろ)があります。その社は、日照り(ひでり)や火災(かさい)の憂(うれ)いを除(のぞ)く竜神(りゅうじん)を祭(まつ)った村の鎮守神(ちんじゅがみ)として、昔から土地の人に信仰(しんこう)されています。
 ○なぜここで龍王を祭ったんだろう。何かあったんだろうか。
 ○龍王ってどんな神様かな。いつから信仰されているんだろう。
 ○どんな方がお世話していらっしゃるんでしょう。
 
袖解橋(そでときはし) 泉都町(せんとちょう)
 中園町(なかぞのちょう)と泉都町との境(さかい)の交差点(こうさてん)の旧道沿(きゅうどうぞ)い「袖解橋」の石碑(せきひ)があります。ここは、大内時代(おおうちじだい)、小郡から山口の街(まち)への入り口でした。各地(かくち)から山口に来る侍(さむらい)たちは、狩衣(かりぎぬ)・直垂(ひたたれ)の袖(そで)ぐくりしたものを、この橋まで来ると解いて、身(み)なりを整(ととの)えて入ったと言われています。このことから、この名がついたといわれています。
 ○身なりを整えたとあるのでここには門かなにかあったのかな。
 ○狩衣ってどんな服だったんだろう。
 ○直垂ってどんな服だったんだろう。
 ○昔の道はどんなふうに小郡から続いていたのかな。今も残っているのかな。
 
一の坂川(いちのさかがわ)
 京都をまねた都(みやこ)を、この山口に作る時に、大内弘世(おおうちひろよ)は、「一の坂川」を、京都の加茂川(かもがわ)に、「椹野川」(ふしのがわ)を淀川(よどがわ)に見(み)たてました。
 この清流(せいりゅう)「一の坂川」は市街地(しがいち)にあるホタルの名所(めいしょ)として知(し)られ、毎年6月ともなれば、あの幻想的(げんそうてき)なホタルの輝(かがや)きが夏(なつ)の夜(よる)を彩(いろど)る風物詩(ふうぶつし)として、観光(かんこう)山口にひとしお風情(ふぜい)をそえています。
<大内氏の時代から、この川の流れる後河原(うしろがわら)は源氏(げんじ)ボタルの発祥地(はっしょうち)として有名だったそうです。>
 ○加茂川ってどんな川なんだろう。
 ○淀川ってどんな川なんだろう。
 ○大内弘世はなぜここに都を作ろうと考えたんだろう。
 ○大内弘世ってどんな人。いつ頃活躍(かつやく)したのかな。
 ○なぜ源氏ボタルっていうんだろう。
 ○ホタルはなぜ光るのかな。ホタルってどんな生き物なんだろう。
 
旧山口藩庁門(きゅうやまぐちはんちょうもん)滝町(たきまち)
 元治元年(かんじがんねん)1864年、毛利藩主(もうりはんしゅ)毛利敬親(もうりたかちか)は居城(きょじょう)を、萩から山口に移し、現在の山口県庁(やまぐちけんちょう)のある場所に、藩庁(はんちょう)−山口城−をつくりました。明治以後(めいじいご)は、ここに県庁(けんちょう)がおかれました。藩政時代(はんせいじだい)の遺物(いぶつ)としては、この表門(おもてもん)と周囲(しゅうい)の壕(ほり)がその面影(おもかげ)を伝えています。
 ○元治という年代の頃にはどんなことがあったのかな。
 ○なぜ萩から山口に居城を移したんだろう。
 ○毛利敬親ってどんな人だったのかな。どんなことをしたんだろう。
 ○山口城ってどんな形をしていたのかな。
 
高嶺−鴻嶺−(こうのみね)城址 滝町
 高嶺城(こうのみねじょう)は、弘治(こうじ)3年(1557年)大内義長(おおうちよしなが)が毛利軍(もうりぐん)に対応(たいおう)するため高嶺の山頂(さんちょう)に城郭(じょうかく)を築(きず)いたものです。後に徳川幕府(とくがわばくふ)の一国一城令(いっこくいちじょうれい)により、寛永(かんえい)15年(1638)に取(と)り壊(こわ)されました。現在、その石垣(いしがき)や井戸(いど)の跡が残っていて、城跡(しろあと)からは、大内菱(おおうちびし)などの文様(もんよう)のある瓦(かわら)がたくさん出土(しゅつど)しています。
 ○高嶺城を再現してみませんか。
 ○大内義長ってどんな人だったんだろう。
 ○一国一城令は誰が何のために出したんだろう。
 ○寛永っていう時代には何があったんだろう。
 ○大内菱って何?
 ○高嶺はなぜ鴻嶺という名前になったんだろう。
 
木戸(きど)神社・木戸公園 糸米(いとよね)
 木戸孝允(きどたかよし)は若いころは、桂小五郎(かつらこごろう)という名前でたいへんな剣(けん)の使い手でした。新撰組(しんせんぐみ)との関わりもあって、小説(しょうせつ)や講談(こうだん)に多(おお)く登場(とうじょう)し、後(のち)に夫人(ふじん)となった、芸妓(げいぎ)幾松(いくまつ)との恋物語(こいものがたり)などもたいへん有名(ゆうめい)です。
 木戸孝允は、西郷隆盛(さいごうたかもり)、大久保利通(おおくぼとしみち)とともに維新(いしん)の三傑(さんけつ)といわれ、参議(さんぎ)、内閣顧問(ないかくこもん)と栄進(えいしん)しましたが、西南の役(せいなんのえき)のあったころに病没(びょうぼつ)しました。
 幕末(ばくまつ)、糸米(いとよね)に本邸(ほんてい)を建てて、ここに住んで国事(こくじ)に奔走(ほんそう)、明治(めいじ)になり東京(とうきょう)に移り、旧宅(きゅうたく)山林(さんりん)は村人(むらびと)に与(あた)えました。人々は神社(じんじゃ)を建(た)てて、その徳(とく)をしのびました。現在(げんざい)、付近(ふきん)は木戸公園(きどこうえん)となり、桜(さくら)の名所(めいしょ)として知られています。
 ○木戸孝允は何流の剣術(けんじゅつ)を身につけていたのかな。
 ○どのくらい強かったんですか?
 ○講談でどんな活躍をしたのかな。
 ○新撰組とどんなふうに関わったんだろう。
 ○どんなことをしたんだろう。
 ○西郷隆盛、大久保利通ってどんな人。
 ○西南の役というのはどんなものだったんだろう。
 ○なぜ神社にしたんだろう。公園になったのはいつのことだろう。
 
瑠璃光寺五重塔(るりこうじごじゅうのとう) 香山町
 25代大内義弘(おおうちよしひろ)が現在の香山公園(こうざんこうえん)に、石屏子介禅師(しっぺいすかいぜんじ又はしっぺいしかいぜんじ)を迎え、香積寺(こうしゃくじ)を建立(こんりゅう)しました。大内義弘は応永(おうえい)6年(1399年)と和泉(いずみ)の堺(さかい)で挙兵(きょへい)しましたが戦死(せんし)しました。
 大内義弘の弟である26代大内盛見(おおうちもりはる)は兄の霊(れい)を弔う(とむらう)ため、香積寺に五重塔(ごじゅうのとう)を造営(ぞうえい)することにしました。大内盛見は完成を待たずに戦死してしまいますが、五重塔は嘉吉(かきつ)2年(1442年)頃に完成(かんせい)しました。
 初層(しょそう)内部(ないぶ)の須弥壇(しゅみだん)は四天柱(してんはしら)の間に造(つく)られています。その形から円形須弥壇といわれ他(ほか)に例(れい)がない珍(めずら)しいものです。
 ○大内義弘ってどんな人だったんだろう。
 ○大内義弘はなぜ堺でしんだんだろう。
 ○大内盛見ってどんな人だったんだろう。
 ○なんで五重なんだろう。4重とか6重はないですね。
 ○須弥壇って何をするもの?
 
山口大神宮(やまぐちだいじんぐう) 滝町
 山口大神宮は、永正(えいしょう)17年(1520)大内義興(おおうちよしおき)が伊勢神宮(いせじんぐう)から神霊(しんれい)を勧請(かんじょう)して創建(そうけん)した神社(じんじゃ)です。
 平成12年10月1日、山口大神宮の式年遷宮造営事業(しきねんせんぐうぞうえいじぎょう)が行われました。本殿(ほんでん)の周囲(しゅうい)に白い石を敷(し)きつめる「お白石持ち行事」(おしらいしもちぎょうじ)が行われますが、これが「白石」(しらいし)の地名(ちめい)の由来(ゆらい)といわれています。
 ○なぜ本殿の周囲に白石を敷き詰める行事があるのだろう。
 ○どんな神様を祭っているのかな。
 ○永正という時代にはどんなことがあったんだろう。
 ○大内義興ってどんなことをした人ですか。
 ○この神社の近くに天之岩戸があるって聞いたけど本当ですか。
 ○伊勢神宮ってどんな神社なんですか。
 
柳の水(やなぎのみず) 滝町
 大内時代(おおうちじだい)、山口には三つの名水(めいすい)がありました。「藤の下水」(ふじのしたみず)、「朧の清水」(おぼろのしみず)、「柳の水」です。この「柳の水」は、滝町(たきまち)法泉寺(ほうせんじ)の北にある民家(みんか)の裏(うら)にあって、水質(すいしつ)の良い水が流れ出ていて、水を汲(く)みに来る人も多いそうです。
Yanagi no Mizu
 ○名水って山口県にどのくらいあるのかな。
 ○この名前の由来はどこからかな。
 ○どんな味なんだろう。
 ○誰が見つけたんだろう。
 
古熊神社(ふるくまじんじゃ) 古熊(ふるくま)
 1327年24代目大内弘世(おおうちひろよ)が京都の北野天神(きたのてんじん)を勧請(かんじょう)して建立(こんりゅう)した古い社(やしろ)です。祭神(さいじん)は菅原道真(すがわらみちざね)で、本殿(ほんでん)拝殿(はいでん)ともに、国の重要文化財(じゅうようぶんかざい)です。11月22日〜23日に行われる山口天神祭り(てんじんまつり)は、山口の代表的(だいひょうてき)な祭礼(さいれい)の1つです。
 ○大内弘世ってどんな人だったのかな。
 ○1327年頃ってどんなことがあったのかな。
 ○北野天神ってどんな神社なのかな。
 ○なぜ菅原道真は神様になったんだろう。
 ○本殿や拝殿のどんなところが重要文化財なのかな。
 
赤根武人(あかねたけと)の碑(ひ) 旭通り 龍王
 赤根武人は、文久3年、高杉晋作(たかすぎしんさく)の後を受け奇兵隊総督となり、下関(しものせき)で外国軍艦(がいこくぐんかん)と戦いました。その後、藩論統一(はんろんとういつ)について過激派(かげきは)と意見(いけん)があわず、上京(じょうきょう)して幕府(ばくふ)に近づき長州藩(ちょうしゅうはん)の立場(たちば)を説明(せつめい)しようとしました。しかし、このことは幕府(ばくふ)に内応(ないおう)したことと見なされて捕(とらえ)られ、慶応(けいおう)2年、この地で処刑されました。現在では、彼の活動(かつどう)が見直(みなお)されています。
 ○そのころ、どんな意見が長州藩のなかにあったんだろう。
 ○そのころはどんなことがあったんだろう。
 ○過激派の意見はどんな意見だったんだろう。
 ○彼はどんなことを説明しようとしたんだろう。
 ○高杉晋作とどんなふうにして知り合ったのかな。
 ○どこの出身の人ですか。
 
重ね岩(かさねいわ) 鰐石町 鰐石
 椹野川(ふしのがわ)の上流(じょうりゅう)、橋(はし)のたもとに大きな重ね餅(かさねもち)のような岩(いわ)があります。この岩はむかしから、重ね岩とよばれ、土地の人に親(した)しまれてきました。むかしは、下の岩の中ほどまで水があり、その部分(ぶぶん)が、ちょうど鰐(わに)が口をあけているように見えるので、鰐石(わにし)と名付(なづ)けられたとも伝えられています。
 鎌倉時代(かまくらじだい)の文献(ぶんけん)に「重岩(かさねいわ)の景観(けいかん)美(うつく)し」と書かれ、少なくとも600年以上の昔(むかし)から雄大(ゆうだい)な姿(すがた)を保(たも)っています。この重岩は戎様(えびすさま)として拝(おが)まれ、子どもの引きつけ封(ふう)じや、虫歯(むしば)封じに御利益(ごりやく)があるとして、豆腐(とうふ)を供(そな)えて拝む人が多かったそうです。現在(げんざい)は商売繁盛(しょうばいはんじょう)の神様(かみさま)として、毎年3月にしめ縄(なわ)を作り、祝詞(のりと)をあげ、お祭りをしています。
 ○今の水面は2mぐらいは下なんだけど、昔は本当にそこまで水があったのですか。
 ○今はなぜ水が少ないのですか。
 ○なぜ戎様なんでしょう。
 ○歯は似ているけど、なぜこんな形になったんですか。
 
 糸米(いとよね)の大ムク 糸米2丁目(西糸米)
 糸米には、大歳社(おおとししゃ)<米つくりの神様の意味を持つ>の小さな祠(ほこら)がありました。明治(めいじ)になって他の場所に移(うつ)りましたが、その境内(けいだい)にあったムクの樹(き)が今でも残っています。樹(き)の周囲(しゅうい)が4.06mもあって近くにはこんな大きなものがありません。
 ○高さはどれくらいあるのかな。
 ○ムクノキってどんな木なんですか。
 ○もともとあった木ですか誰かが植えた木ですか。植えたとしたら何のために?
 ○大歳社は今はどこにあるのですか。
 
古墳(こふん)糸米古墳(いとよねこふん) 白石2丁目 白石中学校
 白石地区には、糸米古墳、茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)、木戸神社古墳(きどjんじゃこふん)、白石古墳(しらいしこふん)など多くの古墳(こふん)が発掘(はっくつ)されました。糸米古墳には2基(き)の円墳(えんふん)が発見され、その中から石棺(せっかん)、土器(どき)、玉類(ぎょくるい)などが発見されました。現在、その石棺(せっかん)が白石中学校の校庭に保存(ほぞん)されています。
 ○なぜ白石地区に古墳が多く見つかったんですか。
 ○いつ頃の時代のものですか。
 ○なかで見つかったものは今どこにあるんですか。
 ○この石棺の石はどこの石ですか。
 ○なんという人のお墓なんだろう。
 
藤の下水(ふじのしたみず) 道場門前1丁目
 大内時代(おおうちじだい)、山口には三つの名水(めいすい)がありました。「藤の下水」(ふじのしたみず)、「朧の清水」(おぼろのしみず)、「柳の水」です。       「藤の下水」は、道場門前(どうじょうもんぜん)1丁目(ちょうめ)、一の坂川(いちのさかがわ)沿(そ)いにあります。今では井戸(いど)と石碑(せきひ)が、そのなごりをとどめています。
 ○今でも水がでるのでしょうか。
 ○大内氏時代の名水の条件ってどんなのかな。
 ○水が出たのは三カ所だけだったんでしょうか。
 
普門寺(ふもんじ) 白石3丁目 西白石
 禅(ぜん)臨済宗(りんざいしゅう)で、本尊(ほんぞん)は、十一面観音(じゅういちめんかんのん)です。かって、この地に大内満盛(おおうちみつもり)が創建した瑞雲寺(ずいうんじ)がありましたが、延元元年(えんげんがんねん)<1336>大内弘直(おおうちなおひろ)公が、再建(さいけん)し、その菩提寺(ぼだいじ)となりました。大内義隆(おおうちよしたか)の時、勅願寺(ちょくがんじ)として、重建(ちょうけん)されましたが、天文年間(てんもんねんかん)に陶氏(すえし)の乱(らん)により焼失(しょうしつ)しました。天正年間(てんしょうねんかん)戦国時代(せんごくじだい)に、再建(さいけん)され、今日(こんにち)に至(いた)っています。
 境内(けいだい)には、明治維新(めいじいしん)で長州藩(ちょうしゅうはん)を率(ひき)いた大村益次郎(おおむらますじろう)の宿舎(しゅくしゃ)となった観音堂(かんのんどう)が今も残っています。
 ○陶氏はなぜ乱を起こしたんだろう。
 ○焼ける前はどのくらいの大きさだったんだろう。
 ○勅願寺ってどんな役割があったんですか。
 ○大内弘直ってどんなことをした武将だったんですか。
 ○十一面観音ってどんな仏様なんですか。
 
亀山公園(かめやまこうえん) 亀山町
 慶長年間(けいちょうねんかん)<1600年前後> 毛利秀元(もうりひでもと)が築城途中(ちくじょうとちゅう)で断念(だんねん)した長山城(ながやまじょう)の跡(あと)で明治(めいじ)33年に頂上(ちょうじょう)を開いて公園(こうえん)にしたものです。明治維新(めいじいしん)に功績(こうせき)のあった毛利敬親(もうりたかちか)や毛利藩主(もうりはんしゅ)たちの銅像(どうぞう)が建(た)てられていましたが、戦時中(せんじちゅう)の金属回収(きんぞくかいしゅう)で取(と)り払(はら)われてしまいました。   
 しかし、現在は、敬親公の像(そう)は復元(ふくげん)されています。また砲台(ほうだい)のあった跡(あと)に旧(きゅう)サビエル記念聖堂(きねんせいどう)がありましたが、平成3年9月5日に焼失(しょうしつ)し、姿(すがた)を変(か)え平成10年に、現在(げんざい)の聖堂(せいどう)に建(た)て替(か)えられました。市街地(しがいち)が一望(いちぼう)できる市民(しみん)の憩(いこ)いの公園(こうえん)です。
 ○なぜ築城を断念したのですか。
 ○亀山という地名はいつついたのですか。
 ○誰が公園にしたのですか。
 ○サビエルはなぜ山口に来たのですか。
 ○毛利秀元ってどんな人でどんなことをしたのですか。
 ○銅像は金属回収されて何になったのですか。
 ○今の銅像を造った人は誰ですか。
 ○昔は銅像がいくつあったんだろう。
 ○もともとここは山だったんですか。

Shiraishi Junior High School