平川小に残る「ふしぎなもの

 
 グローカルクラブで、「学校に残る不思議な物」調べをしました。いつも見慣れているものなのに、それが何かはよく分からない、というものを調べる活動です。どうやら歴史のあるものばかりのようです。そこで、本校の卒業生であり、第29代の校長先生でもある山根典明元校長先生に、いろいろな謎の答えについて教えていただきました。
 

【穴のあいた碑のようなもの】

 体育館前にあるものです。これは、もともとその横にある国旗掲揚台(下の写真)の上に立っていたものだそうです。これは、昭和10年に、当時、平川の助役をされていた神郷の中村丑之丞氏が寄贈されたもので、当時としてはかなり高価なものだったようです。
 この穴は、国旗を掲揚するためにロープを通していたものです。その頃は、山に行ってまっすぐな杉の木を伐採し、それをポールとして使用していたということです。

【国旗掲揚台】

 現在の国旗掲揚台は、当時の土台を生かし、その上に新たにタイルを貼ったものです。この掲揚台は、平成3年に作られています。

【ふしぎな足】

 これも体育館前にあります。土台の上に青銅製の足だけが置いてあり、とても奇妙なものです。この場所にはかつて、この学校の位置を示す指標(経度や緯度、海抜が記されたもの)が置かれていました。
 実は、この足の持ち主は、羽根のはえた天使の像でした。今の体育館の場所に第1校舎があったころ、その横には池がありました。この天使の像は、その池の中においてあったということです。ですから、この土台の下の方には、これがかつて水の中にあった形跡が残っています。校舎改築に伴って天使の像は今の場所に移されましたが、数年前に足を残してどこかに行ってしまいました。

【百万一心の碑】

 この碑は県内のいろいろな学校で見ることができます。もともとは、毛利元就が中国地方を制圧し、今の広島県吉田に城を築いていた頃に「領地の人々が心を一つにして国を作ろう」という願いで残した言葉を碑にしたもので、この碑のもとになった本物の石碑は吉田にあります。
 その言葉を「みんなが一生懸命に力を出し合って学校を作ろう」という意味で解釈し、山口県内の多くの学校が吉田の石碑をモデルにした碑を敷地内に作ったということです。(碑文は「一日一力」と読むこともできます。)
 この碑は昭和30年頃に作られたもののようです。ちなみに、野田神社にもこの碑はあります。

【何かがあったような形跡を残した丸いセメント】


 これも、とても不思議なものです。山根元校長先生には尋ねると、この上にはかつて二宮金次郎の像が建てていったということでした。
 その二宮金次郎はもともとはきちんとした場所に置かれていたようですが、山根先生が校長として赴任された時には、今のプール脇の溝のそばに半ば土に埋もれて転がっていたそうです。
 これを不憫に思われた山根先生がこの場所にセメントで礎石を作り、像を置いたということです。
 その後、何らかの理由でまた二宮金次郎は姿を消し、現在は礎石であったセメント部分だけが残っています。

【昔の門】

 運動場横にあるこの門は、かつては、今の体育館前の階段を上ったところに正門としてありました。
 右側の門には「平川尋常高等小学校」、左側には「平川青年学校」という木製の看板がかかっていたそうです。(看板をかけていたフックが残っています。)
 この門はもともとかなり背の高いものだったそうですが、移築の際に片方の門が折れたので、もう片方も短くし、高さをそろえたということです。
 山根先生が小学生だったころは、運動場の鉄棒のあるあたりまでが学校の敷地で、そこより九田川よりの運動場は田んぼだったそうです。(運動場と田んぼの間には道が通っており、現在の西京方面に向かう道とつながっていたそうです。)
 その後、校舎が改築され、田んぼは運動場になりました。しかし、子どもの数が少なかったために運動場の九田川側にはいつも草が生えたので、この古い門を今の位置に移築し、新たな門を作ることで、子どもたちにしっかり運動場を歩かせ、草が生えないようにしたということです。

【開校百年記念の碑】

 平川小学校の開校は明治37年ですが、この碑は、明治5年の学制発布から数えて100年目に建てられました。
 この碑に書かれてある字は、当時の(23代の)木村校長先生が書かれた字をもとにして掘られたものです。
 記念碑が完成したときには、祝賀祭をこの碑の前で行ったそうです。

【忠魂碑】

 運動場の片隅にある忠魂碑です。これは、平川小学校を卒業され、明治27年以降に様々な戦争に出兵され、命を落とされた方々のために建てられたものです。
 この碑はもともと職員駐車場横の公衆電話のある場所に建てられていましたが、戦後、占領軍の指導で取り壊しを余儀なくされました。
 しかしながら、当時の平川の方々がこの碑を守るために、密かに泉香寺山の頂上にこの碑を移し、年に一度、慰霊祭を開いていたということです。
 その後、当時この場所にあった公民館が移転したのを機に、慰霊碑をこの場所に移しました、
 戦争で亡くなった方々が、いつも母校を見守ることができるよう、との願いをもってこの地に移築したそうです。慰霊碑がここにある理由が分かりました。
 昔は小学生たちが登校する際、この忠魂碑に一礼して運動場に入ったそうです。

【慰霊碑の中には何がある?】

 忠魂碑の中には、亡くなられた方々のお名前と地区、所属されていた軍隊名が書かれた銅板が納められています。


【地名のなぞ】

 平川小学校の校舎のある場所の地名は「黒川」ですが、平川小学校の住所は「平井」となっています。不思議な話ですが、実は、平川小学校の中にも「平井」があるのです。  運動場の片隅(現在の石灰倉庫周辺)の地名は平井です。ですから、学校の地名は間違いではないのです。
 学校の住所を定める際、ここを「平井」にしたのは、いろいろな理由で、学校の電話番号を「市内」にするためでした。昭和30年当時、校舎のある黒川地区は「市外」であり、市外番号が必要であったからだそうです。