東泉寺始祖又は遠祖の森王弥権太夫時乗なる人は元来豊前の人で大内氏に仕えていましたが、なぜ大海に来たかについては異説もありますが、大海の森王家文書によりますと、大内義隆の跡を継いだ義長が豊後大友家より迎えられたとき、附家老として山口に来られた人とあります。しかし、寛保二年(一七一七)四月に当時の往職隆賢の書いた由来書が文書館の「寺社由来」にありますが、それによりますと、大友宗鱗の非道を憎んで豊後をあとにし、大海にきたとあります。
非道とは宗鱗が熱心なキリシタンになったことを指すのでしょう。それはともかく大海に落ち着いてから俗人のまま家に持仏の阿弥陀如来の尊像を安置して日々念仏し、土地の人たちに頼まれて俗体のまま葬式や法事も行っていました。そして慶長の頃(1596~1615)上京して本願寺で教善の法名をいただき、実如上人の六字名号を受けて帰りました。その六字名号は今も寺の宝物として伝わっています。それより4代目釈教智の代に厚狭郡万倉の東泉坊なる古刹を宝永3年(1705年)正月に勧請してはじめて寺格の備わった東泉寺となりました。ですから同寺では釈教智大徳を東泉寺正式の開基としています。
東泉寺本尊は経五寸の阿弥陀如来で恵心僧都作と伝えられています。
寺伝によれば現在の本堂は安政2年(1855年)にできたものです。この建物より前の建物の時代ですが、藩主毛利重就は天明4年(1784年)7月と同8月の2回大海に猟に出かけられた折に、この寺を休憩所にされました。
この寺には藩主にも献上した甘柿の古木が今に残っています。この柿の木をうす墨の柿と言ったそうです。
遠祖・森王弥権太夫の伝説