四、輝弘の乱と秋穂付近の伝説

 昔、この秋穂の地を支配していた秋穂氏についてはすでに述べました。大内義長の後、大内氏の再興をはかるために九州の大友氏のもとに寄寓していた大内輝弘が豊後の兵数千を率いて秋穂浦に上陸して山口攻略を企てました。それは永禄十二年(1569)十月のことです。

 豊後の大友氏の許に亡命していた大内高弘(隆弘)は大内義興の弟で、かっての義興に代わって大内氏を継がんとした野望が露見し、ついに山口の地を去り、豊後の大友氏の許に身を寄せ、時期のくるのを待っていました。しかし、その時期は遂に彼の在世中にはきませんでした。その子輝弘は毛利氏が筑前立花城を攻めるために出陣し、山口の高峰(こうのみね)(鴻峰)城主市川経好もこれに従い出陣している隙をねらい、好機到来と大友宗鱗の軍勢を率いて山口攻略を企てました。数千ともいわれる軍勢を引き連れ、豊後鶴崎を出て主力を秋穂浦に上陸させ、一部を白松(しらまつ)(岐波・阿知須・佐山)付近に上陸させて、小郡川両岸から山口に攻め入ることになりました。それは、永禄十二年(1569)十月十日のことです。

 毛利勢としては山口町奉行の信常太郎兵衛就行を小郡口へ、同じく井上善兵衛就貞を陶峠から梅の木峠、秋穂方面に迎え撃たせることになりました。輝弘の軍勢は秋穂浦に上陸するや「お上使道」に沿うて梅の木峠を越え、陶の正護寺で勢揃いし、いよいよ十二日陶峠を越え一部は鎧ケ峠を越えて山口進攻へと軍を進めました。これを迎え撃つ井上善兵衛の部隊と陶峠を越えた付近で出会い、激しい戦闘になりました。しかし、輝弘の大軍に対して善兵衛は善戦しましたが衆寡敵せず、多くの部下と共に、輝弘の軍勢によって打ち倒されました。そして輝弘軍はなだれるように山口に乱入していきました。

 山口に乱入した輝弘はかっての大内氏ゆかりの筑山城に本陣を構えて高峰城の攻略にかかりました。高峯城の城主市川経好は九州に出陣してその留守は夫人と僅かの部下が守っているだけでしたが、その抵抗は意外に強くて容易には落城しません。この報に接した毛利元就は事の重大さに立花城攻略を断念して、軍勢を引きあげて、小早川隆景、吉川元春をして輝弘を討たせることにしました。

 一方、輝弘軍は旬日に亘って高峰城を攻めましたが落城せず、このままでは期待した旧大内勢の援軍も得られず、そのうち立花城攻略をやめて主力をもって輝弘軍勢に迫りくる毛利勢と戦うことになれば不利です。そこで一旦、退却を決意して山口から秋穂に引き上げてきました。しかし、秋穂浦に待たせてあった船は一艘も見つかりません。ことごとく毛利勢によって焼き払われていたのです。輝弘軍はあわてました。しかし、どうすることもできません。やむなく海外沿いに青江から大海へと出て、大海から大道の旦付近まで来ました。これを迎討つ毛利勢では柴山峠に待ち構えていたのです。岡条付近にこれを迎え撃ち、今は戦意なく、空腹、疲労の輝弘軍兵士たちは多くここで討ち死にました。

土地の人々は死体を埋葬して碑を建て、その霊を祀りました。その石碑は今も二基共にあります。一基は県道より岡条に上る道を僅か五○メートル、南側の溝縁に建っています。

 自然石で高さ二・二四メートル、截面縦五二センチ、横三九・五センチ、この碑が「輝弘碑」とも或いは「六百人塚」とも言われるもので、他の一基は岡条の坂を上りきった頂上付近、ここは見晴らしのよい四辻道付近にあるものです。この石碑には「南無阿弥陀仏」と刻まれています。「念仏石」とも「二百人塚」ともいわれているもので、岡部落に「矢通原」の地名もあります。輝弘はこれより更に東走して二十五日に富海の茶臼山まで攻められ、ここで自刃して果てました。

 そこに輝弘腹切岩があり、山下江泊の地内末田浴に千人塚というのがあり、戦死者を埋葬したものと伝えられ、山の北麓に「大内霊神」と刻んだ小石祠があって、輝弘を祀ったものと伝えられることが、防府市史の述べられています。さきに述べました陶峠を山口に向かって越えた付近を、四十九ヶ原古戦場といい、四九人あてを埋めた墓が四九あったと伝えられ、その跡片もわかなくなるので、明治四十三年にその一か所に「忠魂千霊の碑」が建てられ、また、首将井上善兵衛の墓である宝篋印塔は五〇〇メートルばかり北側の日吉神社横手移され、大番堤のほとりに荒れ果てて残っていると「平川文化散歩」で石川卓美氏が述べられています。

 さて輝弘の乱の古戦場跡を各地で見てきましたが、上陸地点であった秋穂には何の事跡もないのか、被害を受けることもなかったのか、その点について述べなければなれません。輝弘は後世その悲運に同情する声よりも、その侵攻に際して付近の重要な寺院を焼き払ったその許すべからざる行為をにくまれ、悪賊非道の徒として汚名を似て呼ばれています。彼はキリスタンだ大名の宗麟の手先となってこの暴挙を行ったというわけです。

 秋穂はその上陸点とはなりませんでしたが、この地ではげしい戦闘があったという記録はなく、また善常時も清光院(現在の偏明院)も戦火にあわずにすんだことは、秋穂にとって大変幸せなことでありました。

 もっとも輝弘が侵攻を企てた十月よりも数ヶ月前、即ち、同年六月と八月の二回に亘って大友宗麟は小郡湾沿いの白松、秋穂方面の偵察を行っており、その時秋穂浦でも毛利勢と小競合いがありましたが、他の輝弘軍勢通行の道筋にあたる地方では各地で有名寺院が焼け打ちにあたっていることを思うと、秋穂は拠点であったが大きな被害をうけずにすみました。

 ところで輝弘の乱にまつわる伝説は長浜と岩屋にあり、兜山、細声谷の地方から、輝弘船頭の墓馬かくしの伝説がそれです。これについて述べましょう。

 山口から秋穂浦に退却してきた輝弘の軍勢はさきに申し述べましたように、毛利勢により凡ての船を焼き払われていて、全く逃げ道を断たれてしまったのです。  こんな筈はないものと、当時はまだ黒潟は海で、僅かに祇園町西側から長い砂洲があって、この砂洲を伝って生い茂るヨシの間を船を探して西へ西へと三々五々連れ立って敗残兵は美濃ヶ浜にまでたどりついてみましたが、ここにも船はありません。引きかえしたところで敵の急追にあって逃げる道はありません。

 もはや引き返すこともならず、三々五々ただ黙々と岩屋方面にあてもなく歩きつづけました。こうした岩屋の山や谷間には多くの敗残兵があてもなく歩き、重い兜もを脱ぎ捨てて、一人また一人と、淋しく死んでいったというのです。兜山なる古墳のあった小高い山の名前もこの哀れな落武者の最後を物語る地名として、今に残っているのです。

 また岩屋山の狼峠の手前を細声谷といい、今では人家も数軒ありますが、その昔は大木の生い茂る淋しい谷間でありました。その谷に入りますと「もし、もし・・・」と呼びとめらるような声が聞こえます。気のせいでしょうか、人々は「いや間違いなく人の声、あれは輝弘勢の落人の亡霊の声だ」というのです。ここまで逃げ込んでは来たものの、日毎夜毎、敵の討手が近づく足音を気にしながら、遂に味方同士でさえ疑心暗鬼、疑いながら疑われながら、神経をすり減らし、餓死していった亡霊が、今も声なき声、姿亡き姿となって、細声谷にいるのだというのです。

風土注進案には「この谷に落ち人隠れ、細声にて、討手の勢はすぎ通り候やと道行く人に問いしよりこの名ありと申し伝え候」とあります。

「輝弘勢船頭の墓」については風土注進案に「輝弘豊後より乗り来りし船方の船頭、この地にて討死にせし墓の由、土人申し伝え候」と二島村のところで述べられ、それが二島のどこにあったのかも今は明らかではありません。

 秋穂浦にもそうした墓が数多くあったかも知れませんが、天保頃の風土注進案にも全然記録はありません。

 尚、岩屋には「馬かくし」「馬の浦」「海賊谷」「艫付山」等の地名があり、いろいろのことを私共に連想させてくれます。

資料(石川卓美・平川文化散歩、秋穂二島史、続防府市史、風土注進案、岡村好甫・大内輝弘の山口進攻事件とその歴史的評価(地方史研究35)、宍戸記)

秋穂町教育委員会嘱託 田中 穣 編著 「秋穂町の史跡と伝説」 秋穂町公民館
タイピング 秋穂中学校科学部 江田 原田 横垣 大田 原田 平田 平田 藤尾 福田 南部 西山 道中 渡邉

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