大昌寺(旧長徳寺)

大内氏時代の古刹

 赤崎神社の東に大昌寺があります。大昌寺は明治三年社寺整理の時までは「宝珠山・長徳寺」と称していましたが、中野の定林寺を合併して名称を「放光山・大昌寺」と改めたものです。
 それは中野定林寺跡に引寺したのが長徳寺で、同じ名前になるから困まることもあろうと、改名したのです。大昌寺は弾宗の中の曹洞宗寺院です。

 その創建は寺伝によりますと大内弘貞といい、大内氏時代には大伽藍で繁昌したと伝えられ、大内氏亡きあと、大旦那を失って寺も荒れ、いつの頃か火災にあって宝物、世牌等までも焼失してしまいました。
 しかし、その時分得楽寺江月庵という末寺があり、その古跡、本尊等も現在し、末寺であった証文「得楽寺免田証文」もあったと寛保元年(一七四一)頃の寺社由来に書かれています。その得楽寺江月庵は俗称六角堂のことです。つまり六角堂についての古文書が本寺であった長徳寺にあったのです。

 その古文書のことは天保十二年(一八四一)風土注進案にも写しが載せられていまして、それによりますと応永五年、時の給領主曽原甲斐入道が出した永代安堵の得楽寺免田の証文があったのですが、応永九年二月十七日の夜、海賊が来て赤崎寺の証文類は凡て紛失してしまいました。

 このことについては地下の古老の者が皆知っている旨の申し出に対し、応永九年三月曽原左近将監幸範が赤崎長徳寺侍者あてにそのことを証するために書いたものです。このことにより応永年代に大海に曽原甲斐入道と曽原左近将監幸範なる少なくとも二代にわたる地頭(給領主)のあったことがわかります。

 そしてさきに秋穂のことについて述べました時永和元年(一三七五)大内弘世が防府の天満宮拝殿を造営した棟札に新左衛門尉なる人の名があることを申しましたが、それと共に<曽原次郎左衛門尉>なる人の名もあります。この人は<曽原佐近将監幸範>の祖であろうと、風土注進案にも注記されています。

 大内時代、秋穂側に秋穂氏があった時、大海側に曽原氏があったことがわかり続いて、毛利氏の初期寛永検地によって大海は宍道主殿助の知行所になりました。
 そして宍道氏がこの寺を再建しましたが、宍道氏は失脚して領地を没収され従って、再びこの寺も荒れて無住になっていました。

 それを小鯖の福厳院の寒向宗林和尚を迎えて開山とし、寺の再建に尽力したのが大円運徹和向で、元祿一三年(1700)に没していますが、この方を長徳寺の開基としています。それ以後寺は続き、現在職河村俊者和尚が第一六世に当たります。

(寺伝、風土注進案、地下上申、寺社由来)
「秋穂町の史跡と伝説」田中穣編著 秋穂町中央公民館

タイピング 江田・横垣・大田・西山・原田・原田(彰)・平田(陽)・平田(裕)・藤尾・道中・渡辺

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