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名前を変えたのはなぜか?
(結論)はっきりわからなかった。たぶん、身分制度のせいだと思います。

 それでは、考えたこと。はじまりはじまり。

 最初は、村田惣太郎
 これは、当時の風習(ふうしゅう)からいえば、おそらく益次郎の祖父(つまり、おじいさん)が考えられた名前だと思います。
 惣領の惣を使って、一族の代表であること。太郎は、まあ日本ではごく当たり前に男の子につける名前だと思います。桃太郎なんかが有名ですね。(桃から生まれた男の子・・・あまり関係ないか??)
 お父さんは養子で、藤村家を継いでいましたから、益次郎が、村田家の跡取りという意味を名前に残したのでしょう。

 次が村田良庵。(1843年頃には、自分で使っていた名前)
 お医者さん風の名前です。これはおじいさんが、お医者をしている時の名前と同じです。大分県にあった成宜園という漢学の塾に入門した時に、益次郎自身が、この名前で記名しています。このところに秋穂という字を見つけました。
 昔は15才で、大人の仲間いりをして、その時に名前を変える風習があったようですから、たぶん、15才頃に、お父さんから、その名前をもらったのでしょう。

 最初に入った三田尻の塾は医学を教えていました。益次郎はお医者さんになるつもりだったと思います。そうすると、お医者で名前を知られていたおじいさんの名前を継ぐほうがみんなには通りがよかったからだと思います。
 村田蔵六というのは、宇和島藩が彼につけた名前(1854年に命名される。)です。宇和島藩には、蘭学や兵学の講義を頼まれました。西洋から持ち込まれた洋書の翻訳を主に行ったみたいなので、その書籍の管理も行ったと思います。蔵六は、そんな仕事の内容を表しているのではないかと思います。
 みなさんは、どう思いますか。
 まあ、ともかくお医者さんみたいな名前が、武士の身分らしい名前になりました。
 武士の世の中は、殿様から名前を授かることは名誉(めいよ)なことだったのではないかと思います。もっとも益次郎さんが、その名前をどう思っていたかは、資料がなくて、わかりませんでした。

 最後の名前が、私たちが知っている大村益次郎です。
 この大村益次郎は、長州藩が、益次郎を長州に呼び戻して(1860年)、それから5年後に、譜代の班に列し、禄高100石を与えることになった時に、長州藩の命令で名乗ることになった名前です。
 それまでの身分は武士ではない雇い人(百姓)でしたから、これで名実ともに武士になったことになります。  武士を指揮しなくてはならないのですから、その頃の人たちの意識からは、すごく重要なことだったと思います。といっても、益次郎さんは、長州藩にとって最大の試練であった幕府の長州征伐軍に立ち向かうために出発した時には、馬にも乗らずとことこと町民みたいな格好で出かけちゃったそうですから(「花神」から)、武士になったといっても、そんなことを気にしていなかったようです。

 さて、この名前は誰が考えたのでしょう?
 益次郎を長州に呼び戻す運動をしたのは、桂小五郎(木戸孝允)でした。周布政之助という殿様の側近の武士が協力したそうです。殿様ですが、1862年には、長州藩の殿様からガラスの杯をもらっているので、殿様は、益次郎のことを知っていたと思います。でも家来はたくさんいますから覚えていたかはわかりません。
 名前を考えた人は、木戸さんか、周布さんか、殿様か(自分では考えなかったでしょうね。)、それともそういった係りの武士の人かでしょう。名前をもらうのは名誉なことということで考えれば、益次郎さん本人が考えたというのは、ない?

 名前をもう一度考えてみました。
 大村は益次郎が生まれた地名です。
 益は、お父さんの名前の最後にありました。藤村孝益の益です。
次郎は、太郎・次郎ときて2番目の男という意味なのですが、益次郎さんは、長男なので、不思議です。

 ともかく、もともと百姓の身分なので、武士らしく名前をつけたということで、答えは、身分制度のせいだろうと思います。うーむ、よく考えてみると、はっきりしたことはわからない。でもって、おしまいでーす。

 ふーむ・・・誰か、この問題(なぜ名前が変わったのか)の正解を考えてね。(先生より)


(調査期間 1999年7月から199910月)

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Aio Junior High School(1999)