
たぶん、これを見た武士達はこんなことを考えたことでしょう。
明治維新は武士の力で行ったのである。益次郎は、農民の出身なので武士を否定しようとしている。
益次郎は、もとは蘭学医である。西洋にかぶれて、日本を西洋の支配下におこうとしている。
このように考える人物が、新政府の政策に関わっているのは日本の将来にとって良くない。
もともと明治維新は、幕府のやりかたに不満を持つ人達が「尊皇攘夷」という考えで進めてきました。これは天皇を国の中心として、外国を打ち払うということです。確かに天皇に主権が戻りましたが、外国を打ち払うどころか幕府が始めた貿易は、続けられていますし、西洋の風習がどんどん取り入れられています。
このことが、それまでの考え方にこだわる人達にとっては間違ったやりかただと考えられたのだと思います。その中で、益次郎が出した意見書が、益次郎を西洋化の中心人物と見られるようにしたのではないでしょうか。
それから西郷吉之助(西郷隆盛)と益次郎が同じ地位にありながら、実際の作戦指揮権全てを益次郎が握っていたことも、西郷隆盛を支持する人達には気にいらなかったようです。
特に、戊辰戦争前に江戸城に入って、軍政の改革などを行った時に、江戸城をまかされていた薩摩藩の重臣ともめたようなことも原因かもしれません。でも、西郷隆盛は、益次郎をたてていたので、その海江田という武士を大阪の治安にまわしてしまいました。この人は、益次郎暗殺の首謀者とみられています。
こうして、長州藩や薩摩藩の不平を持った武士達や、益次郎を心よく思っていなかった者達が暗殺計画を立てていた大阪・京都に、益次郎さんは出かけていきました。益次郎は、一刻でも早く、新政府直属の軍隊をつくりたかったようです。
あとは、推測ですけど、新政府は薩摩藩と長州藩が中心になっていたのですが、この2つの藩は本当にがっちりと手を組んでいたのでしょうか。どちらも勢力争いをしていたのではないでしょうか。ただ、当面の敵が強力なだけに手を組まないといけなかっただけで、それが片づいてしまった時期、益次郎は木戸孝允とともに長州藩を代表する位置にあったわけですね。
それから、益次郎は、天皇直属の軍隊をつくろうとしていました。それができたら、長州藩や薩摩藩の武士による軍隊より強力なものになります。益次郎は死ぬ間際に、大砲の大量生産を命じています。これは西南戦争で活躍しました。こうした益次郎の計画は、薩摩藩や長州藩にとってはどうだったでしょうか?