明治初年の廃仏棄釈が行われました時に菩提寺は善城寺に合併されました。そこで防府国分寺塔中に禅光院の寺号がありましたのでそれを引寺して現在の霊宝山・禅光院になったのです。
まだ菩提寺であった宝暦九年(一七五九)この寺の中興の祖・天教法師が亡くなわれましたが、その頃この寺に円城比丘という坊さんがおられました。この寺の正式な住職ではなかったのですが大変に信心深い方で、多くの人がその感化を受けたというので逸話も残り、代々寺で懇ろに供養を続けておられます。
円城は浦の東本町徳久さんのうしろ、後藤さんの屋敷がその生家の跡で代々漁師をして暮らしている家に生まれました。そして十三、四歳の頃に菩提寺の住職天教法師に師事し、十七歳頃に戒をうけて沙弥となりました。一意心精進し、大戒をうけて比丘になりました。
比丘というのはお釈迦様の定められた二五〇の戒法を守る僧のことをいう尊称です。
それより人々は比丘さま呼ぶようになりました。
円城比丘は天教法師が亡くなられてから、いよいよ名声高くなり、活仏さまとして人々は尊敬して師と仰ぎました。
円城比丘は十九夜念仏という極く平易な和讃を作って、念仏鐘にあわせて節面白く調子を揃えて唱えせました。それが各部落に広まり、「光明のお座」といって近くのお大師堂や個人の宅を順番に廻って、僧侶ぬきの在家仏教として栄えました。そして月に一日位漁を休んで信心することを漁人たちにすすめ、それを実行させました。
ある年浦の湾にクラゲが大発生し漁が出来ずに困り果てました。その時も円城さまにお願いしてクラゲ封じの祈祷をしてもらいましたところ、クラゲの難が全くなくなりました。
また、ある年の暮には小盗がお寺に忍び込んで米や布団を盗み出して池のはしにおき、再び寺に戻ってお金を探しに来ました。そこを比丘さまに見つかりました。
「生活に困ってのことであれば、昼間に来て事情をはなしてくれればよいのに。何でもやるのであった。」
そして、一度盗んだものを持ってこさせ、改めて入用の品々を盗人に与えました。その盗人はこれに感激して比丘さまの弟子になったといいます。
六十二歳で高野山の浄窟浄窟に御入定になりました弘法大師のことを偲ばれ、円城比丘はわが定命を知り、穀味を断って浄窟に入り、念仏三味の生活を続け、世寿をおわりました。それは天明元年(一七八一)五月七日のことです。今、山口農高秋穂分校の東側の丘に宝篋塔が立っていますが、ここに比丘は安らかに眠っておられるのです。
尚、場内にある大きな宝篋塔は比丘の師天教法印が、元文五年(一七四〇)七月七日に建設されたものです。(寺伝、前住松尾禅山和尚「光明」)