遠い昔、京の都から遠く離れたこの地に、二人の高僧がこられたというのは、どんなわけなのでしょう。そのことについて「善城寺文書」を中心に説明します。
平安時代は、皇族、貴族が、相争って荘園領を広めてゆきました。そうした時代に秋穂は、高倉天皇の治承元年(一一七七)頃に皇室御領になり、当時院政を行って後白河法皇が京都六条に建てられた長講堂の寺領に他の多くの荘園所領と共にこの地を寄進せられました。その寄進領目録の中に「周防二嶋」とあります。これが最初に出てくるこの地方の地名です。
そして建久三年(1192)三月、後鳥羽天皇の時、後白河法皇の皇女勤子内親王に宣陽門院の院号を与えられると共に、長講堂と長講堂領を合わせて宣陽門院に譲られました。
その頃、秋穂と二島は「二島秋穂庄」と書かれています。そして宣陽門院領のこの地は仁和寺菩提院へ寄進せられます。
四条天皇の天福元年(一二三三)に播磨国(兵庫県竜野)の人で、備前守大江恒義の子安主大夫長議なる人物が庄司(領所職)としてこの地に赴任して来ました。この長義は長旅の道中の難儀を考えて最愛の妻は京に残して、自分は一人子の千寿丸だけをつれて旅発ちました。
当時はまだ秋穂半島には人家も少なく、二島の方が中心でしたので、長義も二島に住みつき、定められた税を取りたて、庄内の出来事を処理し、庄内巡視を行い、土木事業にも努め、秋穂半島を開発していきました。よって、この頃から「秋穂二島庄」と呼ばれるようになりました。
男やもめの長義に対し、人のすすめもありまして、現地妻を迎えることになりました。やがて、1人の子供が生まれました。この子は長時と名付けられました。
この長時がやっと二歳になった頃、悪疫が流行して、長義と千寿丸は共に病にかかり死んでしまいました。二人の遺骸は二島の海浜の丘に埋葬されました。現地妻とその子長時は悲嘆にくれながら、このことを仁和寺善提院に知らせるための飛脚を出しました。
善提院では早速、門跡・三河僧正、同三条院大納言了遍の二人が下向されることになったといいます。そして今の善城寺、当時の多聞寺に泊られました。この頃には単に「秋穂庄」と呼んでいます。そして寺名を善城寺と改められ真言宗寺院として仁和寺派寺院になったわけです。
善城寺と共に平原山仁光寺(今の上ヶ田戎定院)、朝日山千光院(今の朝日山真照院)も同じ時真言宗に取り立てられた寺と言う伝説です。
長時は成長してから父の後を受け継いだのでこの地の庄司になったと言われ、長義、千寿丸の墓所には柏の木が植えられ、後に祠を建て、大江の宮、または、単に江の宮といって、その祭りは善城寺から出向いてとり行われていました。しかし、明治初年に神仏分離が行われてからこのこともやみました。
善城寺は秋穂浦の祗園社(今の八坂神社)の別当坊でもありましたので、明治の神仏分離によって、祇園社仏像・仏具関係はすべてこの寺に移されました。今に祇園社のものが同寺に保管されているのはその故です。
寺の境内には古くから寺の鎮守として祀られてきた稲荷神社や見晴らしのよい観音堂もあり、八十八ヶ所札所のうち、この寺に本堂に三十五番、寺内東側に二十七番、三十四番、
三十六番があり、観音堂に三十一番、三十三番があって、更に寺外の札所が七ヶ所にあります。お大師詣りの人たちにとってここは必ず足をとめ一休みするところです。
山門は豊臣秀吉が慶帳二年(一五九七)に建立とも言い、寛永二年(一六二五)本堂、庫裡共建立されたともいいます。
本堂前にあるタブの古木の空洞には弘法大師を祀り、伝説では弘法大師お手植えの木といいます。この木をみただけでも古い寺とすぐわかります。
檀家は下村、黒潟、秋穂浦以南に約四百軒ほどあります。
現在の建物は大正五年起工、大正十四年に前住藤岡泰賢和尚の代に竣工しました。
眺望のよい大自然の中でこの寺は代々の住職や壇家、遠隔地にも多い信徒によって守られて来た秋穂随一の古刹です。長い歴史を通して今日まで一度も火災や戦禍にあうことなく今日に及んでいます。このことは大変幸せなことです。そして中央の大寺院にも劣らぬ貴重な古書や古文書、その多数多くの宝蔵物もあります。