小林 和作

 和作は、明治21年8月14日和市の次男として生まれた。
 長男が早世したので少年の頃から小林家の跡取りとして大きな期待をかけられていた。
 しかし、本人は幼少から病弱で、家の業を継ぐ意志は全くなかった。少年の頃は、そうしたことで特に目立つことはなかったが、絵を描くことはうまかった。
 大正7年、30歳の時に、大海の医師、臼井隆助の娘マサコと結婚、このころから日本画や洋画を初歩から学んでいく。
その年12月に長男康男が誕生した。
 初孫の誕生を喜んだ和市は、翌年の大正10年4月脳濱血で倒れて他界した。(61歳)
 翌年大正11年2月長女年子が生まれた。
 丁度そのころ、和作は、東京に出て油絵に没頭することになり、京都から林重義とともに東京に移り下落合から上落合に居を移し梅原竜三郎、中山政、林武ら知遇をえて、その指導を受けた。
 関東大震災のあった翌大正13年3月に日本橋三越で開催された第2回春陽会に「夏の果実」を出品し初入選した。
 これが洋画家としての第一歩となる。
 それから翌年6月にも第三回春陽会展に三点出品し春陽会賞を受けた。
 秋穂町出身の画家として、現在もなお町民の尊敬を受けている。

資料:秋穂町史 秋穂中学校科学部提供 1999

大海・小林家  赤崎社に奉納されている石造物には小林家一族のものが目立って多く、 なかでも文政十年と天保五年に一対腕の石燈龍を、参道左右に奉納したのが小林和七 である。彼は天保八年には、大海塩浜の普請料として銀拾貫目を上納。廻船業を営んで 大海塩田の諸州問株屋を与えられ、積出場世話方をして居た。文久三年の調べでは五人乗 ・六人乗の廻船え、大阪廻り・北国廻りに活躍したと、山内家文書にある。
 その頃、秋穂浦の森繁和吉と二島の小野和吉、それにおお海の小林和七の三人を「秋穂の三和」と言って、ともにその名を遠くまで 知られていたという。
 小林和七は慶徳四年には永代名字と帯刀を免され、永代大圧屋格になっている。明治維新前後の社会的、経済的な変動で、森繁も小野も 産をつぶしたが、大海の小林だけは荒波をよく乗り切ることができたという。
 和七のあと和市である。彼は赤崎社の神興を寄進したといい、厳格実直な人柄で知られ、時間と約束 を守ること厳で、生活も質素であった。すり減った下駄の歯を継ぎ足して履いたと伝える。赤崎神社の拝殿に、和市が明治二年に奉 献した絵馬であるが、堂々たる千石船四艘をもって活躍していたことを示すものである。
(タイピング 山下和彦)

小林和作  和作は明治二十一年八月十四日、和市の次男として生まれた。少年時代のこと、小学校である日、担任教師 が欠勤し、時の秋本という校長が代わって授業をした。
 図画の時間に手本を見て忠実に写しとる学習を指導し、いっせいにその作業にとりかかった。その間  校長は巡視し、和作だけが別の絵をかいているのを見つけた。校長は和作の絵をその背後から見ていた。
 きっと叱られるものと思っていると、意外に「これはよくかけた。この絵を私にくれ。」と言ったという 話が古老に伝わっている。それほど幼少の頃から既に秀れた画才があり、学業も抜群であったと言う。
 和作には兄があったが、幼く夭折したので、父は当然和作に家業を継がせたいと思ったが、和作自身その意志 は全くなかった。
画家として立つ  十五歳のとき父と共に上京して日本画家田中頼章の門をたたくが、健康すぐれず帰省して、翌年四月に 京都市立美術学校絵画科に入学する。四か年在学後、明治四十一年三月に卒業し、日本画家川北霞峰に 入門。更に翌々年四月に京都市立絵画専門学校日本画科に入学する。
 その年の秋、弟四回文部省展覧会(文展)に、「椿」を出品、初入選。そのとき「霞村」と号した。  大正二年三月、絵画専門学校を卒業。その年文展に「志摩の波切村」を出展して褒状を受ける。
(タイピング 田辺智憲)

日本画から洋画へ
 大正七年30歳のとき、大海の名医臼井隆助の娘マサ子と結婚。その頃から日本画から洋画に転向、鹿子木孟郎の画塾に通う。
 大正九年長男康男が生まれ、翌年四月には父和市が脳溢血で倒れ、六十二歳の生涯を閉じた。
 翌年の秋、林重義とともに東京に移住し、梅原龍三郎・中川一政・林武らの知遇を得てその指導を受ける。
春陽会から独立美術へ
 大正十三年第二回春陽会展に出品。以後毎年春陽会展に出品し 、翌年・翌々年ともに春陽会賞を受け、昭和二年にその会員となる。
 昭和三年一月、林重義等と渡欧、フランス・イタリア・イギリスを巡り、のちにセザンヌの郷里エクス・アン・プロバァンスに  翌年四月まで滞在。その間の作品一二点は、帰国後第七回春陽展に出品。
 昭和九年には、春陽展を退会して独立美術協会のとなり、尾道に転住し、以後独立展に出品するようになり、翌々年妻マサ子が病没する。
 昭和十二年四月、大阪朝日新聞二万号発行記念「明治・大正・昭和三聖代名作美術展」に、「薔薇咲くカリブ島」が展示される。
 昭和十七年柴川敏子と再婚、娘年子が真鍋道博と結婚する。翌年長男康男が急死し、更に昭和二十年七月、母よねも病死する。
 戦後は毎年、独立展・美術団体連合会展に多くの作品を出品。昭和二十七年よりは日本国際美術展が始まり、これにも出品する。
(タイピング 吉村浩一)

 昭和二十八年には芸能選奨文部大臣賞を受賞し、その翌年からは現代日本美術展 にも毎回出品し、個展も開いてその活躍はめざましい。

地元尾道・郷土秋穂  尾道文化財保護委員会の創設に尽力し、その事業に積極的に協力す るとともに、郷土秋穂に対しても多年に亘って多くの貢献をするが、 それらについては後に述べる。
 昭和三十九年四月、秋穂町名誉町民第一号に推挙される。
 翌年四月、国立近代美術館で開かれた「近代日本画における文人画 とその影響(日本と中国)展」に「伯耆大山の秋」等五点が展示される。
 昭和四十六年四月、国立近代美術館での「近代日本美術における一 九三〇年展」にも二点が展示。この年勲三等旭日中綬賞を受ける。
 昭和四十九年十一月四日、スケッチ旅行に出かけ、三次市日下野で 奇禍にあい、その夜八六歳の生涯を閉じた。
 葬儀は六日、自宅で行われた。
 法名・慈徳院誠鏡和照居士。
 内閣総理大臣より銀杯が贈られ、二十三日尾道市総合卸センターホール で告別式。宮沢広島知事・小野竹喬画伯等一二〇〇人が参列。
 郷里秋穂町では、同月三十日秋穂小学校講堂で告別式。橋本山口県 知事等約八〇〇名参列。
墓は大昌寺小林墓地と尾道の西国寺墓地にある。
(昭和五一・一一)
(タイピング 橋本大輔)
画家・小林和作(2)  著作・図書
 小林和作画伯が逝去されて昭和四十九年十一月には「日本美術」は、直ちに先生の 追悼特集号をつくり十二月号とした。
 また先生には「風景画と随筆」美術出版社、「画集・春集秋霧」「画集・天地豊麗」「小林和作 全文集」や「小林和作論」が新聞・雑誌・単行本にある。
 いまここではこれらの中からごく一部を利用して、その絵の特色・思想・信条等を 知る資料としたい。
小林和作論 小林さんの絵には、いささかの市気も匠気もなかった。小林さんの無類 の正直と童心がそのままそこに出ていた。
 小林さんの絵というと、美しい紅葉の赤を主張した秋の山や林の絵が まず目にうかぶ。青い海や湖の色も目にうかぶ。それは一見無造作に 描かれているが、粗雑ではない。空気はいつも澄んでいる。
(谷川徹三・哲学者)
(タイピング 多田裕貴)

 油絵は写生をもとにして絵を描くが、小林さんは日本画出身だから、 戸外に矢立てを持って出て、デッサンをし、それからアトリエに帰っ て油絵にしていた。これが小林芸術を油絵としては特殊なものにした 原因であろう。古くから日本画、いわゆる山水画の行き方だが、決し て日本画臭くはなかった。すばらしい色感にあふれた風景画家だった と思う。(林武・洋画家)
 私は小林先生のよく描かれる山や海の風景は、まるで綴れ織を見る 思いがする。というのは、あの赤・黄・青の織りなす色彩の日本的饗 宴は、正に綴れ織の豪華さを感じさせるからである。(中略)  「上高地への道」「カリブ島風景」などは、まだ多彩さが発揮され てなく、むしろ落着いた画風であるが、「婦人像」「人形を持つ娘」に なると、一変して赤系の強烈な色彩になっている。小林先生のパテン トとも言える岩礁や岬や青い海は「阿波の海」あたりからで「山湖の 秋」は赤と青と黄の実に明快な作品で小林先生の独創性がますます高まっ てきたころである。私は先生の作品を評して油彩画の鉄斎だと書いた ことがあるが、確かにあの力強い筆致と対象を大きく把握する画面構 成はそのとおりだと思う。「山田竜平・京都新聞美術部長」 民衆画家
 小林さんくらい芸術家を気取らぬ画家は珍しかった。この精神があ れだけの才能と実力を持ちながら、中央画壇を志向することなく、尾 道市に永住し、さまざまな角度から、地方文化の貢献に生きがいをささげ た原動力だったと言える。
(タイピング 吉本)

 小林さんは「私の方針としては比較的安い画料で多作して、その作 品を世に賑わし、一方ではその画料を蓄積し、かつ放出 して、地方文化人たちの何かの役に立つことを志している。こんな姿 勢は「芸術家気取り」の人たちには不向きで,それらの人は私たちを ちょう笑するだろうが,私は平気である。」と高言してはばかななっかた。 実際、小林さんは独立美術館に所属しながら,画壇の通幣で あるセクショナリズムを超えて、地方の若い有望な画家を育てる苦労を 疎まなかった。それだけではない。昨年出版された広島県美術館の設立 に当たっても、多額の寄付をおしまなかった。
 山岳や海の風景を好んで題材にし,その画風も暖かい色彩と自由奔放な 筆致が特色であった。作品は大衆にとって,なじみ易いものだった。この風画 が小林さんの生き方と見事に証合していた。
書家  私は先生の絵も好きだが字も大変好きである。先生の書ほど、作意のない, 天衣無縫な字も珍しい。先生の書を見ていると、 自分の心が洗われるような気がする。 志賀直哉の小説「暗夜行路」の記念碑が尾道のゆかりの地に出来るとき, 誰にを書いてもらうか志賀氏の意見をきいたところ、どの書家 よりも尾道在住の小林和作画伯の字がよかろう、 とのことで、小林先生が小説の一節を筆にして現在の記念碑となった。 (佐藤忠雄・随筆・戻り灯籠より)
 私は近年、書の方も書くが、書の方は誤字を書いた時のほかは、 全然という程書きつぶしをしない。 完成したマンネリズムに近い書よりは、粗末でも 個性的な書である対たいと思っている。
(タイピング 秋本)

私は絵でも書でも、真剣勝負的な気持ちで書いたものでなければなら ないと思う。(小林和作語録)

社会奉仕
 尾道でも郷土の秋穂でも、先生は実に多くの事業や行事やに協力して 浄財を投げ出された。とりわけ文化財保護事業・青少 年育成事業に物心両面から支援を続けてこられた。秋穂町・小林奨学金 もその一例である。
 山口県でも県立美術館建設計画があって、橋本前山口県知事からも 先生の御協力をお願いしていた。惜しいことにその美術館ができない 前に、先生は逝去された。
 しかしその約束は、昨年の秋、敏子未亡人によって果たされた。遺 作三八八点と、師友林武・梅原龍三郎等の絵、南絵、浮世絵など コレクション五四点、計四四二点を寄付され、今年十月二十日から十一月 五日まで、その一部の披露展が山口県立博物館で開かれた。

遺徳を偲ぶ  秋穂町名誉町民であった先生の記録碑「小林和作先生頌徳碑」は、 先生の遺徳を俾ぶ町民の浄財で、秋穂町立中央公民館境内に建てられ、 昨年十一月六日除幕式があった。
式には敬子未亡人、碑文を書かれた文化勲章に輝く師友の中川一政画伯、橋本山口県知事らが臨席されて行われた。
昭和51年12月
(タイピング 吉村賢治)


秋穂町史 田中譲編著 秋穂中央公民館
提供 秋穂中学校科学部 部長 橋本・副部長 吉村・秋本・多田・中川・田辺・吉村・山下
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