それは文久三年、このお宮の千五十年祭に当たる年のことです。防長両国にとって末だかつてなかった国難の日が迫って来ました。外国からは四国連合艦隊が下関を攻撃して来る直前のことで、ついで朝敵と言われて長州征伐の軍も迎えます。いつどのような軍隊が秋穂浦へ攻撃を加えて来るかわからない不安の日々を過ごしました。よって、八幡様の前には八幡隊が台場を築きましたし、この国難突破の心願をこめてこの鳥居は建てられたのです。
もともとこの鳥居は、天保年間に花香塩田の築立成就の祈願のため、花香山の石を刻んで建てる準備をしていたものが、そのままになっていたので、この時にその石材を使って建てたものです。
この時も二ノ鳥居の古事にならって、当時回船業で栄えていた森繁和吉が二〇〇俵の米を寄進して枕にして建てたという伝えがあります。しかし、その伝説は誤りで森繁和吉はこの年四月二十一日に柳川で歿しています。