正八幡宮
秋穂・二島の氏神

一、正八幡宮の由来

 八幡様は各地にあるので、その地名を冠して「○○八幡宮」というのが普通で、秋穂の場合にも、「秋穂八幡宮」という場合もありますが、正式な名称は「正八幡宮」で地名はつけてありません。

 なぜそのようにしたのか、それは由来を調べれば分かります。

 正八幡宮は、嵯峨天皇の弘仁五年(八一四)に宇佐から二島に勧請し、西戎鎮護の神として祀られてきました。ですから正八幡宮には、当時嵯峨天皇御親筆の勅額といわれる「八幡二島宮」の篇額が、今に伝わっています。即ち、最初にできたのは二島で、その名も「八幡二島宮」であったわけです。

 それを現在地に移したのは大内義興公で文亀(1501)3月でありました。それから240年後元文5年(1740)8月13日に現在の社殿が毛利宗広公によって造営せれたものです。そこで従来の「八幡二島宮」又は「二島八幡宮」の地名を変更して、「秋穂八幡宮」となるところですが、従来の社名をそのように変えることは適当ではありません。

 そこで単に「正八幡宮」と称するようになったものです。毛利藩制になって寛文二年(1662)に建立された二ノ鳥居には「正八幡宮」となっています。


二 建造物と宝物

 現在の建物は江戸時代にできたものでありますが、大内時代の様式を受け継いだもので、その一部彫刻物は、大内時代のものがそのまま使われているといわれます。そして、今は山口県指定文化財になっています。独特の建築様式で建物全体の配置が「宮」の字型にできており「宀」が桜門と回廊、「呂」が拝殿、中殿、本殿を示しています。そして回廊の柱の礎石は周囲に溝を掘り、これに潮水を入れて白蟻の侵入を防ぐように出来ている点等この社独特の技法とされています。

 なお、先に申しましたように弘仁五年勧請したとき、西戎降服鎮護の神として祀られたことを申しましたが、そのために建物が西向きになっていることも特色の一つです。

 嵯峨天皇の勅額と伝えられている「八幡二嶋宮」と共に「紺紙金泥の法華経八巻」を賜わったとされていますがその法華経はこのお宮の別当坊であった遍明院に現在保管されており、大変貴重な文化財とされています。

 別に正八幡宮に伝わっていた「能面」10固も県要文化財に指定され、現在は山口県立博物に保管されています。指定の理由によりますと、古い神楽面であること、作者がこの社の社人とわかるもの、分明年代、秋穂大夫重成の銘が見られる等があります。

 このほかに八幡大菩薩緑起(前期重成筆者)や小野道風真筆の巻物、宗薩祗夢庵筆の「連歌新式目」、青蓮院宮尊圓法新王御真筆巻物、了戒能定作太刀一口等、また、中世の古文書二通もあります。この社が古くから単に秋穂、二島両郷の氏神様として尊崇されたばかりでなく、大内氏や毛利氏の特別の信奉と保護を受けてきたものであることがわかります。


三 御神幸祭と九日祭

 正八幡宮の秋祭の御神幸祭は旧暦八月十五日に行われてきました。お旅所は昔は二島古宮様で、前夜祭(ヨド祭)から始まり、当日はまず宮廻りの式からはじまりました。地頭代、神主社の松尾社を拝み、本社の後を通って草座(拝殿)の南測口から昇殿して礼拝式があり、そのあと神輿の外側の幕を張り、別当(編明院)が神遷式を行いました。そして御神幸の行列が始まります。

 神幸の行列には各部落から出る「通り物」が続きました。通り物の中では中野の「大名行列・ヤッコ踊り」がもっとも盛大でありましたが、今はそのような通り物はほとんどがなくなりました。ただ南部落の「代神楽」だけは最近復活されています。

 お旅所は交通が次第に頻繁になるので、一時境内の放生池付近に改めましたが、これでは物足らないので、その後、祢宜の疫神社屋敷に移され、今に及んでいます。

九日祭

 この神社の特色あるお祭りで、五穀豊穰を祈って行う頭屋祭です。氏子中の各部落の中から毎年五組の頭人がでて行うもので、一ノ頭が二島、南、惣在所、二ノ頭が大里、祢宜、上ヶ田、三ノ頭が宮ノ旦、幸田、仁光寺、四ノ頭が東西両天田、中野、五ノ頭が下村、浦、青江でこれらの各組から当番で八人一組宛計四〇名が参加します。

 昔は九月朔日から頭人は浜辺に早朝出かけて汐を浴び、汐を汲んで正八幡宮に日参し、家でも家族と別室にあたらしい筵を敷いて寝起きして身を浄め、九月八日、九日両目に行われましたが、今は九月九日だけ祭りになっています。夕方四時頃に楼門北の回廊に一ノ頭から五ノ頭までそれぞれ着座して待ちます。このため頭屋の各組では毎年新しい筵を用意したものですが、今はそれもできません。

 いよいよ饗膳儀式が五頭によって行われるので拝殿の方へ移ります。
 この時地頭人は新しい角縦草履をはき、頭の組のひとに背負われて渡りますが、この時、参詣人たちは競って頭人の履いている角立草履を取り合います。もとより片足分でも幸いにてに入れたものは、それは幸運に恵まれ盗難除けのおお守りになりますので持ち帰って玄関入口上につるし、大切に家の守りにしてきました。

 この日は流鏑馬もありました。馬に乗ってお宮を三回廻ります。その間に七五膳のお供えをします。それから射手は馬上から弓を的に向かって放ちながら参道をかけ下ります。これを三回繰り返します。

   この他に正八幡宮には神職たちが行う<細男の舞>という古式の舞も江戸時代にはありました。前記神楽面はこの舞に使用されたものでしょう。


四、正八満宮の伝説・俗信

 多くの神社では新たに他から祭神を勧請して祭る場合にそれまでにその地にあった在来の神も共に祭っています。

 正八幡宮の場合はその在来神が松尾社で松童社ともいいます。正八幡宮を新たに迎えた時、新古両神の間で次のような対話が行われたという伝説があります。
新「ここの地を借り受けたいが、その地料はいくらにしてもらいましょうや」
古「毎年二反歩に敷きつめる藁とする」
新しい神様は、二反歩に地面が見えぬほどの厚さの敷き藁を毎年要求せられて困られたかというと、さにあらず僅か数束の小束をもって来て、それを細かく刻み、それを籠に入れて満遍なく二反歩に撒き散らし、これで終わりましたと伝えられますと、旧神はその様子を見て、この新たなる神の優れた知恵に感じ入り、快く受け入れられました。このように言い伝えられてきています。

○もぐら退治と八幡さま

 秋穂に限らず、もぐらの害は百姓にとって昔から悩みの種でありました。芽を出したばかりの野菜も枯らしました。いくら丁寧に苗を植えておいても、翌朝にはもぐらが持ち上げてしまい、知らずに放っておくと枯れてしまいます。困り果てた氏子達は、これまたわれらの守護神正八幡宮に宮籠りして一心にもぐら退治を祈願しました。すると、お告げがあり、

「一切の不浄の穢れを忌むこと宇佐の例に従う時は、もぐらの害もなくなるであろう」
 八幡様の本家宇佐の例にならって不浄の時は身を慎み、食事も一緒にすることなく、別火にするといって別に煮炊きして食べました。
 昔は火が混じるといって、不浄に関係ある者と共食することを慎みましたので、例えば、忌み明けまでは外出も慎み、外で一緒に食べる席や神まいりの仲間にも入らないようにしました。

 このことを厳格に守ることは口先では容易でも、実際実行するとなると大変に困難でありましたが、秋穂二島両郷の氏子仲間では立派に守りましたので、それ以後、もぐらの害はなくなり、他郷の人達もそれを聞き、正八幡宮の御砂を貰い受けて持ち帰り畑に蒔いたところ、以後その害はなくなったと言い伝えられ、正八幡宮のおかげと感謝しました。昔は、神仏に頼る以外には解決の方法を知らず、それ故に真剣そのものでした。


五 正八幡宮由来碑文を書いた坂本天山について

 正八幡宮碑文を書いた坂本天山は、信州高遠藩の家臣坂本英臣の嫡男、延亨2年(1745)生まれです。幼い頃から父に武技を学び、彼は旧式砲術を改めて「寸香打」の法を発見しました。
 線香一寸を焚く間に数発の弾丸を連射する画期的な法です。
 長じて大阪に出て長崎漫遊の途中秋穂に寄り、平原氏に碑文を懇請され、亨和元年(1801)2度目に来た時書いたものです。

 その時、平原・有富・上田三氏に秋穂浦紀行三首の揮毫を贈りましたが今は有富家の分だけが残っています。

 天山は長崎で、オランダ砲術の実技を研究、亨和二年に帰国する予定でありましたが、病にかかり、翌三年三月二十九日に長崎の地で没しました。享年五十九歳。

 現在有富家にある天山の揮毫は、同家の尚心亭の園地を賞して作詞したもので次の通りであります。
偶窺春潮候 経過秋穂尋 郷人時有乞
旅客試相尋 池見遊魚楽 亭縣尚友心
将航殊索意 聊駐紀行吟
(社伝、風土注進案、国繁英男・末繁家文書・吉松慶久・二島史・有富家所蔵軸物)


資料
秋穂町教育委員会嘱託 田中 穣 編著「 秋穂町の史跡と伝説」 秋穂町公民館
タイピング 江田 原田 横垣 大田 原田 平田 平田 藤尾 福田 南部 西山 道中 渡邉
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