大村益次郎さんは、長州藩の小郡宰判府の医師村田考益の子ではじめは、村田蔵六といいました。
三田尻の梅田幽斉に蘭学、広瀬淡窓に漢字、緒方洪庵に西洋医学を学びました。
そして、帰郷し、医業を開きましが、思わしくなく、蘭学の知識を活かし、志を兵学に求めました大村さんは、1853年に宇和島藩に招かれ、また江戸で塾を開き、幕府の講武所で教授をするなど、転々としましたが、万延元年長州藩に召され、名倫館教授となりました。そして四境戦争の石州口を担当。その作戦ぶりから、”戦の神様”などと謳われ、対幕戦の開始と同時に登場した長州藩最高の軍師でありました。武器の充実にともなう洋式兵制の採用、大村さんの新知識を必要としたのでした。明治になると、兵部大輔となり、木戸孝允の協力者として、軍制改正に専念したが、この年、(明治2年)京都で反対派の襲撃を受け、(9月4日)この年の11月5日、大阪で没しました。