正八幡宮二ノ鳥居

 現在「二ノ鳥居」傍らに説明版が建てられております。それでわかりますように、二ノ鳥居の左右両柱には文字が刻まれていたのですが、長年月のうちに風化が激しくて、今ではその文字が刻まれていたこともわからないほどになりました。

 寛文二年(一六六二)の作で県下でも古い鳥居の一つです。秋穂浦の有富七兵衛(現在の有富医院の祖)が多額の寄附をし、秋穂二島両郷の惣氏子が協力して浄財を出し、労力を奉仕して建てたものです。
 その当時の小郡宰判の代宮東条九郎石衛門尉就賢と、秋穂の圧屋茂兵衛(天田の人で西青江安光一族の祖)利兵衛(大里の人で小野一族の祖)の両名の名も刻まれ、またその当時の宮司職・菩提寺(現在の禅光院)の宥重という方の名もあります。遍明院の重舜法印遷化の翌年であります。遍遍明院別当坊の臨時代役をされたものと思われます。

 この鳥居は「国家安全と庄内豊饒」を祈って建てたと書いてあります。 庄内とは秋穂庄内で、秋穂二島全体です。この時代に外屋池や大池が築かれ、これまで畑しかできなかった所が田に替わり、天田から中野、下村、浦にかけての海岸べりにそうして約七〇町歩ほどの黒潟古開作もこの頃にでき三年あとに完成します。

 これまで耕地の少なかった秋穂が開発されて、多くの人々が住みけるようになりました。こうしたことは秋穂だけにとどまりません。小郡宰判管内各地に同じように池ができ、水路が開かれ開作ができます。藩の方針に従い、東上九郎右衛門という名代官のもとで行われたもので、鋳銭司と大道にまたがる長沢池もこの時代にできたのです。
 そして鋳銭司では東条代官の記念碑が、大道では「津山社」という東条九郎右衛門をまつるお宮が建てられています。秋穂ではこの鳥居がその記念になっています。
 この鳥居を建てるのに、浦の有富では二〇〇俵の米を寄進して、その米俵を積み重ね、鳥居を建てる枕にしたとの口伝があります。


資料
秋穂町教育委員会嘱託 田中 穣 編著 「秋穂町の史跡と伝説」 秋穂町公民館
タイピング 江田 原田 横垣 大田 原田 平田 平田 藤尾 福田 南部 西山 道中 渡邉

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