この頃防府徳地や小鯖仁保は大いに発展し、平子三郎重経が源頼朝から仁保恒富を賜わって仁保に居を構えたのもこのあとすぐ建五年(一一九四)のことです。
この時代仁保小鯖から海に最も近いのが大道、大海の旦浦でありました。よって旦浦に出る道が開かれ、後大内氏時代に栄えた秋穂浦まで延長せられたのでしょうか。
更に毛利氏時代になると小鯖と大海の給領主宍道氏のもとで大海は小鯖の枝村とも言って往来は益々盛んになり、奥地から大阪送りの米の津出しは旦浦で行われました。
明治三十四年佐波郡柚野字出合より仁保、大内、小鯖を経て大道駅に至り、秋穂港に達する里道を県道にする運動がおこり、のち実現して一時は定期バスが秋穂・山口間を通ったこともありました。
奥地の木竹薪炭を海辺に届け、塩や千鰯、海藻を奥地に運ぶ重要な輸送路であったことは明治、大正、昭和の時代にまで及んでいます。
秋穂では「地下上申」にこの道一里塚の記録があり、秋穂浦の脇に一か所形ばかり残り、次が大海峠であったとあり、秋穂浦・大海峠間は二七町です。次は旦浦でこれより柴山峠を通り次が切畑の東畑。これより小鯖に入り、柊を経て仁保石坂に至ります。一里塚は石坂、仁保峠にもあったことが風土注進案にあり、石坂より旦浦まで五里、秋穂浦まで六里二七町、昔山陽道の支道、小鯖の本道でありました。