そのためには藩の正規の武士団だけでは不十分なので、百姓や町人からも希望者を募って武士と一緒にして奇兵隊を組織して、銃砲戦に備えようとしていました。
こうしてはじめて奇兵隊を組織したのが高杉晋作で、文久三年 (一八六三)六月七日のことで、明治元年より四年前、下関の地で行われました。
しばらく奇兵隊は関門の要地の警備にあたっていましたが、九月のはじめになって、秋穂に移ってくることになりました。
それは毛利藩主が萩城から山口に移されたので、敵が山口に攻撃をしてくるかも知れない、もしもそのようなことがあれば、それは山口の一番近い海辺の秋穂に上陸してくるに違いない、とすれば秋穂湾や小郡湾、三田尻湾までの海岸防御は厳重にしておかなければならない、そうした防備のために、奇兵隊は下関から秋穂に移って来ることになりました。
それは文久3年(1863)九月のことで、本隊が来る前の先発隊としてこの付近の地理がよくわかっている、司令級の人物で名田島向山に古屋敷のある医家で奇兵隊に入っていた三分利徳三郎と陶村出身で吉田松陰の松下村塾の塾頭を勤めたことのある気骨の士と言われた富永有隣等が九月三日に下関から秋穂浦に上陸してきました。
そして秋穂の庄屋を訪ね、小郡の勘場にも挨拶にいき、宿舎に予定していた大里の泉蔵坊、万徳院の二か寺(この二か寺は後に合併されて、今栄泰寺となっています。)と祢宜の遍照院、真善坊の二か寺この二か寺も朝日山千光院に合併されて、今は朝日山真照院になっています。)にも行って、打ち合わせをしました。本隊は一日において五日から船に乗って来て前記四か寺に落ち着き、その本部を泉蔵坊にきめました。
はじめに申したように騎兵隊は高杉晋作が編成して総監になっていましたが、秋穂にくるころは総監は後人の竜弥太郎、河上弥市の二人に譲っていましたが。そして隊員たちは各寺から正八幡宮の広い鏡内に集まって訓練を受けることもしばしばでした。
この騎兵隊に秋穂から入隊していた人でわかっているのは次の方々です。下村の佐波英治、大海の河野二郎信義、田中恒太郎、高橋(松村)惣助、太田松郎、森繁辰蔵、この外は、秋穂浦の福田隆氏本家にあたる仁光寺の福田正元氏祖父の又兵衛。この人は奇兵隊に入って四境戦争では大村益次郎の率いる石州口戦争に従軍しました。その後幕兵追討の軍に加わり東北地方にまで遠征した勇士で、昭和十年十二月九十四歳、自宅で生涯を閉じました。その各地転戦のことは当時行く先きで社寺で受けたお守りが今に同家に伝わっているものにより知ることができます。これらのお守りは纏めて大袋に入れ、同氏が太平洋戦争で中国奥地に肌身離さず護身の符として持ち運んだといいます。又兵衛の兄弥太郎も奇兵隊に入って元治元年(一八六四)八月六日、四国連合艦隊が馬関を攻撃して来たときに壮烈な戦死をとげた人です。又兵衛は兄の弔戦に加わり活躍した人です。
一、秋穂の台場
奇兵隊は秋穂に約5ヶ月間居って、その間に尻川、花香、黒潟、長浜の四か所と小郡湾の西側にも地元の人たちに応援してもらって台場を造りました。台場というのは大砲を据えつける台のことで、海から侵入して来る敵を防ぐために造られたのです。しかし当時は台場は出来ても、本物の大砲がありませんので、それに代わる代用品で間に合わせ、大砲が出来次第取り替えていく予定にしていました。
その台場というのは、長さ五〇メートル、幅六ートル位の土台を造るもので、海側は高潮が来ても土が崩れないように杭を打って竹でシガラを組み、その内側に山土を運んで盛ったものです。その台場の上には大きな孟宗竹を使って大砲にみかけたものを取り付けました。沖の方から敵が本物の大砲に見違えてにげてくれればいいなぁと思ってのことです。しかし当時外国船には双眼鏡があって、近寄らなくても、それがニセ物であることは手に取るようにわかりましたので、彼等は安心して上陸してきたことは後に下関に四国艦隊が攻撃して来た時に、よくわかりました。秋穂では僅かではありますが、本物の大砲を据えていました。しかし下関には攻撃して来たが秋穂に攻撃してくることは幸いなことにありませんでした。
さてその台場を造った時、十分に堅固に実際に役立つように出来ているかどうか、専門家に検査してもらうことになりました。その検査役には、秋穂西天田に少年時代を過ごした大村益次郎が選ばれました。益次郎はその頃江戸から引き上げて来て、山口で塾を開いて西洋式の作戦行動を青年達に教えながら長州藩の兵制改革に着手した頃で、元治元年(1864年)3月のことです。
大村益次郎は台場のことについては早くから研究し、宇和島藩に仕えたときも実際に台場を築いた経験もあり、幕府の命令で江川太郎左衛門が江戸湾に築いた台場についても、それがどんな欠陥があるか、実際について塾生たちにも教えたことのある人なので、当時おそらく日本最高の専門技術者の一人であったに違いありません。その益次郎は二月に三田尻、三月に秋穂付近の台場を検分して廻っています。
台場は単に専門家や一部の人たちの関心にとどまらず、藩でも若殿様がその策立の様子を巡視して廻られました。秋穂では浦の有富に泊られ、翌朝船で沖合から花香、尻川の台場を御覧になり、黒潟から長浜に廻られ、幸崎から渡し船で藤尾に出られました。それは益次郎巡検よりも早く、元治元年正月のことでした。
台場のうち尻川の台場は町民プールと西側墓原の中間地帯に、現在小松林になっている所にありました。また黒潟海岸の台場は黒潟南公民館になっている元慈光俺の前の海岸です。今は防波堤ができて、跡形がなくなりましたが、この付近の古老の人たちが少年時代には、台場跡が、遊び場であったと言っています。この慈光俺に今もその屋敷にある52番の札所があり、ここには杲天という憂国の情にもえる坊さんが住んで居り、付近の人々にすすめて大磐若経600巻を寄進してもらって、朝夕国家安全を祈りつづけたのもこの時期のことです。その大磐若経600巻は現在秋穂町中央公民館で全巻保管されています。
(山内家文書・騎兵隊日記・福田家口伝)