二、伊藤博文公と秋穂の漁師

 伊藤博文公は明治十八年最初の内閣総理大臣になった人で奇兵隊にも縁故が深く、幕末から明治初年頃にしばしば他の志士たちと秋穂に来られた方で、はじめは俊輔といっていました。

 先に申しました奇兵隊がまだできない前に、二島長浜の山尾庸三や湯田の井上聞多(後に馨といいました)等と一緒に長州藩が尊王壌夷に沸き返っていた文久三年五月に密かに外国船に乗り込んでイギリス留学に赴いたことは皆さん既に知っていると思います。その留学費用はこれまた大村益次郎の尽力によって得られたものです。

 密航も成功してイギリスに着いて半年ばかりした頃に、長州藩は外国艦隊と戦い、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ四国連合艦隊が長州を攻撃する準備をしているという情報を耳にした伊藤俊輔、井上聞多の二人はすぐさま帰国の途につき、この際外国と戦うことの不利を藩に説き聞かせようと決心しました。帰って来てみると、四国艦隊は大分の姫島付近に集結して既に下関攻撃に出発したところで、僅かの遅れで戦いをやめさせることはできません。戦いは長州藩の敗北に終わりました。講和談判には高杉晋作があたり、伊藤俊輔がこれを助けて成功裏に終わらせることができました。

 しかしやがて朝敵の汚名を着せられた長州に対し、幕府は攻撃を加えて来ます。それが第一次長州征伐です。外国艦隊にやぶれ、又四境に敵を迎えては勝ち目はないので、この際自重して幕府に従うという隠健派・俗論党が長州藩でも藩の実権を握りました。

 この時、高杉晋作はこれに反対して、正義派の勝利を目ざして兵をあげ俗論党を退けるため立ち上がりました。即ち、長州征伐は薩摩や会津藩が幕府と結託して起こしたもので、決して幕府の真意からでたのではない、だから幕府が攻めてくるならば断固戦って撃退し、尊王の大義を天下に明らかにしなければならぬ、防長二州が団結してあたるならば幕府軍三六藩の兵も決しておそれるに足らん、こうした正義党の冒頭に立ったのが高杉晋作で、その呼びかけにまっ先に応じたのが伊藤俊輔等でありました。

 この俗論党と正義党の争いを防長の内訌戦といいます。正義党は広く農民や町人たちにまで支持されて、各地に起こった諸隊の勢力は遂に恭順派を退けて藩論を統一することに成功しました。それにより第二次長州征伐がはじまります。長州藩ではこれを四境戦と言い、四境に敵を迎えて大いに奮戦し、各地で幕府軍を撃退し、ついに長州側の勝利に終わりました。これより更に、薩摩と提携して幕府討伐を行って明治新政を迎えることになります。

明治新政府のもとで明治憲法を作ることになった時、伊藤博文は立憲制度調査のためにヨーロッパに渡り、 帰国後明治憲法制定の任をはたしました。明治十八年に旧来の太政官制を廃して内閣総理大臣が置かれることになった時、最初の首相兼官内大臣になったのが伊藤博文公でありました。この要職について約一年後明治十九年十一月四日に首相伊藤博文は御用があって船で九州方面に出張しました。当時はまだ汽車も山陽にまで通じておらず、往復は蒸気船でありました。

 その帰途、蒸気船が秋穂浦沖の竹島付近を通りかかりました。その時の出来事です。ここで秋穂浦漁人の話を聞くことにしましょう。

 秋穂浦新町に上田重太郎という漁師が共同井戸の東北の小さな小屋に住んでいました。

 それは明治十九年旧十一月の日のことでした。息子の善助(そのころ二十六〜七歳でありました)と同じ漁師仲間の金像(平岡姓)とその息子柳吉の四人で漁に出ていました。鯛縄漁で豊後の姫島近くの漁場まで出て相当の鯛が取れたので浦へ帰る途中のことです。その夜は中野の秋葉様の前夜祭の行われる日で、早く帰って祭り魚に間に合わせたかったのです。

 しかしその夜は特別寒い夜でした。姫島を離れて竹島に近づくころ、急に雪雲が襲って来ました。小さな漁船はすっかり暗雲の中に閉じこめられて一寸先も見えないようになってしまいました。しかし何としても一刻も早く浦まで帰りたい四人は遮二無二突き進んで船を漕ぎつづけました。しかし寒い北風は日頃は波静かな海面に巨涛となってこの漁船を翻弄しました。吹雪は四人の頬に、体に、手にたたきつけて来ました。 その暴風は益々強くなります。とその時遥か向こうに汽船の航海燈が見えて来ました。遥か向こうのように思えましたが、それは厚い雪雲のためでした。とたんに漁船は横波を食って一たまりもなく転覆してしまいました。

 さっき見えた航海燈は黒い大きい船尾にゆれて、この四人の鼻先を通りすぎて行きます。

 四人は死者狂いで救けを求めて呼びました。一生懸命声の限りに叫びつづけました。がしかし汽船は気付かないのか、西北の暴風と怒涛に追われるように東へ向かって去って行きました。

 汽船の姿が見えなくなって長い長い時がすぎたように四人は感じました。多分三〜四○分位の時間であったかも知れません。しかし暗黒のいてつく寒い怒涛にもまれる荒海で、転覆船の船底板につかまっている四人にとっては限りなく長時間に感じられたのは当たり前のことです。頭上に降りしきる雪の中、互いに励ましあう声で、辛うじてがんばり続けている四人の命です。風前の燈火というのはこのことに外なりません。  とその時一旦東に去ったと思われた先刻の汽船は方向転換して再び帰ってくるではありませんか。厳寒の海の中で頑張り通した四人は、静かに近づくその船に救出されることをどんなに感謝したことでしょう。

 その船には時の総理大臣伊藤博文公が乗って居られたのです。伊藤公は「お前達は秋穂の漁人か。私も秋穂には因縁がある。それにしても助かってよかったノー」といってやさしく声をかけてくださいました。船は神戸に着きました。再び懇ろな慰めの言葉とともに一通の書き物、それに、漁船を失った身では明日から困るだろうといって、漁船の新造と漁具を整えるのに必要な資金として九十何円という大金まで下さったのです。その頃米一表が一円六〇銭位、職人の日役が二〇銭位のところですから、夢のような大金でありました。

 四人は再び船に乗って秋穂に帰って来ました。そして大きな船をつくり、網を買って幸せなものとの漁師の暮らしをつづけることができました。しかしやがて時がたち重太郎も平岡親子もなくなり、重太郎の息子の善助もやがて死に、その子は戸畑に移住しましたので、今はゆかりのある人は居なくなりました。

 重爺さんはこの話を「黒船でノー、おおかた軍艦ちゅうんじゃろー、俺たちが叫んだ声は聞こえたが、行き脚の早い大きな船は急には止まらないでノー、ずっとやり越してから廻って戻ってくれて、俺達の上手に船を止めてくれ、すぐはしけ二艘を降ろしてくれた。もう少し遅れたら俺達は凍え死んでしまうところじゃった。船にあげて着物を着替えさせてくれ、暖めたり薬や飲み物をくれたり、その上伊藤公から勿体ないお見舞を貰うたり、有難いことじゃった。今はもう昔じゃ。」

 そう言って重爺さんは繰り返し繰り返しこの話をしてくれました。重爺さんはあの時頂いた書き物は神棚で鼠に喰われたとも、質屋に入れて金を借り、そのまま流れたともいいますが、本当のことは判りません。

 この話を知っている古老の数はほんの僅かになりました。そして明治の元勲と仰がれる伊藤公がなくなって既に70年の歳月がすぎました。伊藤公は明治42年10月26日満州のハルピンで不逞の徒に狙われて、69歳の生涯を終わられました。
(伊藤公実録・末繁家文書・浦藤野米吉・平田辰太郎の話)

秋穂町教育委員会嘱託 田中 穣 編著 「秋穂町の史跡と伝説」 秋穂町公民館
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