本然性海について(僧侶)

一生

寛保2年(1742)秋穂浦江川の下流髪解橋あたりの伊勢羅を名のる家に生まれた。幼少の頃から仏心の志が驚く、7.8才の頃下村の遍明院7世住職恵淳法印の弟子となり性海と名のった。20歳のころより高野山に上って真言密教の修行を重ね、帰郷して朝日山真善坊に住み、もっぱら真言宗の布教につとめていた。
明和3年(1776)遍明院の師恵淳法師が逝去したので、その後をついで遍明院第8世の住職となった。
天明3年(1783)弟子の我屋作右衛明(後の善心法師)とともに、四国88カ所を巡り、御砂を秋穂・大海・二島に礼所を定めて奉安し、秋穂88カ所を開いた。この頃は、長い間不作が続き、農民は凶作に飢え人心は、闇夜の不安におののいていた。性海法印は、この世直しのために弘法大師の信仰を人々に説いたのである。
文政8年(1825)大願成就の喜びを身に締め、遍明院で71歳で逝去した。

88カ所

秋穂町にもあるが、四国の各地に散在する弘法大師の遺跡。
秋穂町にもあるのは、江戸時代にこの風習が益々盛んに行われたため。

性海法印が四国88カ所のかんせいを思い立った直接の動機

法印が別府温泉に保養のため滞在中の出来事である。ある日地獄湯の見える丘の芝生の上で、つい疲れから眠ってしまった。その時、煮えたぎる湯の中に黒髪の見覚えのある女の人の生者が浮きつ沈みつして、性海法印に助けを求めている。性海法印は驚いて眼を覚まし、何と恐ろしい夢を見たものか。不思議に思いながら夕暮れに宿に帰りついた。ところがその宿には多くの人が集まっており、只事でないことがすぐ分かった。人々の話ではこの家の女主人が急死したのだとのこと。日頃は女主人は、仏さまのように柔和を装うてはいたが、本性は人に嫌われる貧欲な人であった由。法印は夢と現実がこのように合うことを知り、善悪困果の理法によって、造悪の者はおち、修善の者はのぼるというお経の言葉どおりであることを深く知った。そこでいよいよ信心を固めて帰り、大師堂完成の旅にたったという。

調査者1年 田中

資料:秋穂町史 秋穂中学校国際科学部提供

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