遍 明 院

 秋穂町役場から防府大道行きのバス路線を約300メートル行ったところが遍明院峠で、遍明院は頂上付近、道の右側にあります。この地に遍明院が移策されたのは安政五年(一八五八)で、それまでは現在の下村公民館北側の墓地の隣にありました。
 この古屋敷にはじめて寺を建てたのは大内氏時代から毛利氏時代に移った頃、即ち、永祿五年(一五六二)頃で秋穂飛騨守盛治という、この地方を支配していた豪族(地頭)です。代々仕えた大内氏四代、即ち大内政弘、義興、義隆、義長の四人と盛治(本人)の両親、盛光、椿姫の霊を祭る位牌を残し、寺屋敷の寄進をしていずこかに去っていきました。よって秋穂飛騨守盛治建立の寺院とされています。父の名にちなみ「盛光院」としたのですが、後に毛利輝元の奥方・清光夫人と同音にあたることから寺号を改めて「竜光山・遍明院」と改めました。真言宗寺院です。

一 正八幡宮別当坊
 遍明院は、正八幡宮の別当坊でありましたから明治初年神仏分離が行われた際、正八幡宮にあった仏像、仏具はそのまま遍明院に移されましたので、祭神の八幡菩薩をはじめ、三神の仏像も、また、御神幸祭のとき神興につるさた懸仏も、また、嵯峨天皇から下賜されたと伝えられる紺紙金泥法華経八巻も編明院に現存されています。
 寛文二年(一六六二)建立の正八幡宮二ノ鳥居には宮司職宥重とあります。この宥重は菩提寺(現弾光院)住職ですが、この鳥居が建つ前年に編明院の重舜という住職が亡くなりましたので、この時菩提寺住職が代勤したものと思われます。

二、 秋穂氏菩提寺
 それではこの寺に残っている前記位牌のことから説明しましょう。
 位牌は高さ三〇センチ程もある大きな木製で、漆塗りですが、その漆がはがれて、今では裏面の小さい字は読みにくくなっています。
 表面には次の通り刻まれています。
 法泉寺殿 凌雲寺殿 先考圓喬居士
                  各霊位
 龍福寺殿 東禅寺殿 先妣妙椿大姉
この戒名は次の人々です。
 大内政弘 大内義興 亡父因幡守盛光
                   各霊位
 大内義隆 大内義長 亡母盛光室椿姫
裏側には次のことが漢文で書いてあります。
 防州大内の家臣騨守盛治公の世に居を秋穂庄にトし、四隣を布化し、恒に文武の道を志す。近頃また仏教を信じ、よって一宇精舎を建立し、号して盛光院という。許多の土地を寄付し、以て先君の幽魂に供え、兼ねて親戚の菩提を祈る。故に春夏秋冬四季の観光山嶽と共に無転、六時の礼懺天地と共に無窮、今其の言を録し、以て牌後に題し、後世の意志に備う。施主の求願窮りなし。

 永禄五壬戊二月五日これで秋穂氏には盛光、盛治の父子が大内氏末期に秋穂にいたことがわかります。はじめは二島側に居を構えていたのですが、のちには今秋穂農業協同組合の本館屋敷が秋穂氏居城跡であったとも伝えられ、三角池近くに墓場もあり、何人のものともわからない五輪塔の石碑があったそうで、それを片付けたのは、大正頃までの地主・山内芳三氏であったとの話です。氏はその五輪塔を中学校グラウンド東側の同氏所有の山上に安置したと申されていますが、同地は砂利業者が採砂して崩したので行方がわからなくなりました。惜しいことです。

 さて、秋穂氏でわかっているのは、南北朝初め頃永和元年(1375)に防府の天満宮が改築造営されていましたが、その時の棟札に大内氏一族の名が書かれ、結縁家中の中に最も古い秋穂氏の祖、それからあと大内村興隆寺に永享九年(1437)三月二十三日に蔵人盛忠なる者が秋穂圧内、三郎丸名田八反歩を寄進していますし、同じ頃正八幡宮の造営奉賀帳に大内盛見ほか署名捺印した中に同じ筆跡で同じ判の盛忠があります。秋穂氏の祖であるに違いありませんが、詳しいことはわかりません。

 遍明院峠の手前、山口農高秋穂分校の西側で、秋穂中学校前の道を隔て南側に小さな丸山があります。この丸山の頂上付近は平坦で小松林になっていますが、ここが昔から秋穂氏の砦(とりで)であったところだと言い伝えられています。
 頂上平地の北側にかつて大きな松が数本あり、そこに井戸様の深い穴がありました。井戸であったとか、宝物が埋められていたのを盗掘した跡だとか言われていましたが、今はその跡形もありません。多分海から侵入してくる外敵に対し監視する所であったに違いありません。

 ところで秋穂氏はその後どうなったのか、一説には海を渡って九州に落ちのびたとする説が最も有力です。九州には大内氏の勢力が各地に残っていましたし、遍明院位牌の翌年、つまり永禄六年には浦の祗園社はその頃疫神社といわれて下村大将軍(現公民館)にあったものを浦に移したのも秋穂飛騨守盛治であったと伝えられていますし、それより約五年後大内氏再興を期して大友宗麟の援軍に支えられて大内輝弘が豊後から秋穂浦に上陸し、山口を目指して進軍して来ますが、大内残党が上陸を機に援軍を差し向けてくれるものと予期していたのですが、その時秋穂氏が戦線に加わった形跡は見当たりませんので、恐らく、その間に秋穂の地をさったに違いありません。

 そこで九州で落ちのびたとする説に関連して、九州福岡県遠賀郡稲築町にある秋穂氏一族の話を聞き、古文書も見せてもらい、長徳寺芳俊氏所見等併せて見ると次の通りです。

 現在、北九州市黒崎から、近鉄バスで十数分、三ヶ森駅近くに産婦人科を開業しておられる秋穂裕美氏、その実兄で東京在住の大橋充氏がおられます。また、その本家にあたる秋穂晶子氏なる家が稲築町にあり、その隣屋敷が前記秋穂裕美氏生家で、共に藁葺きのまま現在も古式をそのままに残しています。
 先生の話の要点は、

  1. 今では秋穂をアキホと通じやすいように発音しているが、昔はアイオといっていた。
  2. 祖先は、中国地方から船に乗って逃げてきたが、その途中船底に穴があき、浸水してくるのを、アワビが吸い付いてくれて離れず、そのため命拾いをしたので、今でも本家ではアワビを食べない。
  3. 秋穂民の居城であった鷺山城が落城する際、医者か僧侶になれば生き延びることが許されたので、それ以降は、代々医業を家業にしている。
  4. 現在、同家第一代の医者、釈宗善の墓は、盛治が秋穂を離れて約100年、明暦元年(1655年)と刻まれている。

 よって秋穂飛騨守盛治は九州に渡ったのか。先方の秋穂氏の人々も、秋穂の地を祖先の地のように思われ、昨年も大橋氏帰郷の節長徳寺に立ち寄られて、秋穂氏遺跡を視て帰られました。

 九州の秋穂氏一族は大阪にもあり、別に福山あたりにもその後裔があったという伝説もあります。

三、秋穂印幡守盛光と椿姫の伝説

 遍明院に秋穂氏が残した位牌(いはい)は多くの謎に包まれています。位牌に刻まれた大内家四代の当主の戒名(かいみょう)のうち、法泉寺殿(政弘)、凌雲寺殿(義興)、龍福寺殿(義隆)はそれぞれ大内第二九、三○、三一代の当主で、最後の東福寺殿(義長)も当然第三二代の当主として位牌はできています。しかし、この人をそのように呼ばずに、「偽主義長」と呼び、大内氏は義隆を以て滅亡したと毛利氏側は主張します。もし秋穂氏がその時点で大内氏を見捨て、毛利勢に走っていたとすれば、その主張に従うはずです。しかし、秋穂氏が残した位牌は正しく大内第三二代当主・義長の名をとどめていることは、秋穂氏は大内家再興のため、歴史の表面で活躍しなかったにしろ、義長擁立に尽くしたことだけは確かです。

 義長は大友宗麟の弟晴英です。陶隆房(晴賢)に迎えられ、天文二十一年(一五五二)二月十一日に大内氏再興を期して豊後を出発、三月一日多々良港に上陸して山口の館に入りました。それから三年、弘治元年(一五五五)十月安芸の毛利元就は厳島に陶晴賢(すえはるかた)を討ち、ついでに翌二年山口の高峰城にいた義長を攻めました。
 義長は当然豊後の大友氏を頼って逃げるはずですから先手を打って毛利氏は三島水軍を味方に引き入れ、乃美兵部承宗勝を説いて上関、防府秋穂、白松の海口要衝を手中におさめ、その逃げ道をふさぐと共に大友軍の来援にも早くから備えていました。そのことを知った義長は海から豊後に渡ることを断念して陸路長府に向かいここで抗戦し、大内残党の来援をも期待したものでしょう。
 しかし、そのような期待は水泡に帰し、元就の急追にあってあって長福寺(今の功山寺)で自刃して果てました。その墓は功山寺墓地奥深まったところにある三基の宝きょう印塔がそれで、中央が義長、右側が杉民部、左側が鶴寿丸(晴賢の孫)の墓と言われています。

 その頃、秋穂因幡守盛光は大内旧臣の一人として手兵を率いて義長に従うためにいずれかに向かったと伝えられ、こと、こころざしと違い敗退して帰り、今はこれまでと善城寺山の大岩に座し、割腹して果てたという伝説があります。その知らせを受けた令室椿姫は、やがて押し寄せてくるであろう敵兵に備えて、甲斐甲斐しく館の守備に万全を期しました。夜になり奥の間で通夜をしていると果たせるかな、敵勢は夜の闇にまぎれて館を包囲して乱入してくる模様。こうなった以上「城を枕に因幡守に殉じよう」といったんは決心するのですが、供のものは一刻も早くこの場を逃げるよう勧めるのです。

 「早まってはいけません。お殿様の御遺骸は重石をつけて池に沈めてありますれば、敵の手に渡る心配はございません。それに若君さまの生死もいまだ定かでございませんので、早まられてはいけはせぬ。ここを落ちのびられて、お殿様のおとむらいをなさらねばなりませぬ」

 椿姫もそれにうなずき、愛馬に乗って只一人仁光寺目指して暗闇の中へ消えて行きました。しかし、敵兵は既にこのことを知り、仁光寺峠で待ち構えています。今わこれまでと椿姫は敵の刃に倒れるよりは水から逆手に持った壊刀で果て去ったと伝えられています。大晦日の夜のことでありました。

その椿姫の乗った愛馬の轡(くつわ)の音のような、チリチリーン、チリチリーンと鳴る音が大晦日の夜仁光寺峠を通るとき籔河内池と上の池の中間あたりにきまって聞こえると古老の人は話していると二島史に吉松氏は書いています。

また、二島駐在所より浜内方面行きの県道を少し南下した小高い畑の中の大きな椿の木の下に石祠が祀られていますが、ここが椿姫の墓所だったという伝説もあります。

 一方、本郷方では遍明院旧屋敷のあった大将軍(下村公民館)付近の南側小高い丸山を秋穂城址とも砦(とりで)跡とも伝える伝があることは既に述べました。二島側の伝説に従えば、秋穂因幡守はまだ二島に住んでいたかのようであり、その居館跡は現在二島農協のある墓地近くであったと言われます。

 しかし、本郷側での伝説では既にこの時砦に近い下村の地に居館を移していたようにも言われます。

 下克上の時代に生きた秋穂因幡守夫妻は果たしてこの地で果てたのか、或いは果てた如くに装うていずれかへ去っていったものか、その子秋穂飛騨守盛治と共に全く謎に包まれています。

 当時建てた清光院では代々大内氏と秋穂氏の霊をまつることは当然のことですが、特に毛利家に対して尽くすことも他の寺に例を見せません。毛利家の怒りに触れて廃寺となることをおそれたのか、或いは秋穂氏最後の人盛治の意を受け継いだものか、日牌簿ができてからは先ずその最初に毛利家代々の戒名が書きつらねられていること、盛光院は毛利輝元の令室清光夫人の清光と同音の故にこれを改めて遍明院としたのはお寺ができて約100年後、延宝の頃であったといいます。いつまでも心細の注意を払ってこれに任えようとしています。

 しかし、秋穂氏がその名を改めることなく、毛利家の軍門に下ってその庇護を受けることはありませんでした。

四、輝弘の乱と秋穂付近の伝説

 昔この秋穂の地を支配していた秋穂氏については既に述べました。大内義長の後大内氏再興をはからうために九州の大友氏のもとに寄寓していた大内輝弘が豊後の兵数千を率いて秋穂浦に上陸して山口攻略を企てました。それは永禄十二年(一五六九)十月のことです。

 豊後の大友氏の許に亡命していた大内高弘(隆弘)は大内義興の弟でかつて義興に代わって大内氏と継がんだとした野望が露見し、ついに山口の地を去り、豊後の大友氏の許に身を寄せ、時期のくるのを待っていました。しかし、その時期は隊に彼の在世中にはきませんでした。その子輝弘は毛利氏が築前立花城を攻めるために出陣し、山口の高嶺(鴻峰)城主市川経好もこれを従い出陣している隙をねらい、好機到来と大友宗麟の軍勢を率いて山口攻略を企てました。数千ともいわる軍勢を引きつれ、豊後鶴崎を出て秋穂浦に上陸させ、一部を白松(岐波・阿知須・佐山)付近に上陸させて、小郡川両岸から山口へ攻めることになりました。それは永禄十二年(一五六九)十月十日のことです。

 毛利勢としては山口町奉行の信常太郎兵衛就行を小郡口へ、同じく井上善兵衛就貞を陶峠から梅の木峠、秋穂方面に迎え撃たせることになりました。輝弘の軍勢は秋穂浦に上陸するや「お上使道」に沿うて梅の木峠を越え、陶の正護寺で勢揃いをし、いよいよ12日陶峠を越え一部は鎧ケ峠を越えて山口進攻へと軍を進めました。これを迎え撃つ井上善兵衛の部隊と陶峠を越えた付近で、出会い、激しい戦闘になりました。しかし、輝弘の大軍に対して善兵衛は善戦しましたが、輝弘の軍勢によって討ち滅ぼされてしまいました。そして、輝弘軍はなだれるように山口へと乱入してきました。

 山口に進入した輝弘はかっての大内ゆかりの築山城に本陣を構えて高峰城の攻略にかかりました。高峰城主市川経好は九州に出陣してその留守は夫人と僅かの部下が守っているだけでしたが、その抵抗が意外に強くて容易には落城しません。

 この報に接した毛利元就は事の重大さに立花城攻略を断念して軍勢を引きあげて、小早川隆景、吉川元春をして輝弘を討たせることにしました。

 一方輝弘軍は、旬日に亘って、高峰城を攻めましたが落城せず、このままでは期待した旧大内勢の援軍も得られず、そのうち立花城攻略をやめて主力を以って輝弘軍勢に迫りくる毛利軍と戦うことになれば不利です。そこで一旦、退却を決意して山口から秋穂に引き上げてきました。しかし、秋穂浦の海辺に待たせてあった船は一艘も見つかりません。悉く毛利勢によって焼き払われていたのです。輝弘軍はあわてました。しかし、どうすることもできません。やむなく海岸ぞいに青江から大海へと出て、大海から大道の旦付近まで来ました。これを迎え討つ毛利勢では柴山峠に待ち構えていたのです。岡条付近にこれを迎え撃ち、今は戦意なく、空腹、疲労の輝弘軍兵士たちは多くここで討ち死にました。

土地の人々は死体を埋葬して碑を建て、その霊を祀りました。その石碑は今も二基共にあります。一基は県道より岡条に上る道を僅か五○メートル、南側の溝縁に建っています。

 自然石で高さ二・二四メートル、截面縦五二センチ、横三九・五センチ、この碑が「輝弘碑」とも或いは「六百人塚」とも言われるもので、他の一基は岡条の坂を上りきった頂上付近、ここは見晴らしのよい四辻道付近にあるものです。この石碑には「南無阿弥陀仏」と刻まれています。「念仏石」とも「二百人塚」ともいわれているもので、岡部落に「矢通原」の地名もあります。輝弘はこれより更に東走して二十五日に富海の茶臼山まで攻められ、ここで自刃して果てました。そこに輝弘腹切岩があり、山下江泊の地内末田浴に千人塚というのがあり、戦死者を埋葬したものと伝えられ、山の北麓に「大内霊神」と刻んだ小石祠があって、輝弘を祀ったものと伝えられることが、防府市史の述べられています。さきに述べました陶峠を山口に向かって越えた付近を、四十九ヶ原古戦場といい、四九人あてを埋めた墓が四九あったと伝えられ、その跡片もわかなくなるので、明治四十三年にその一か所に「忠魂千霊の碑」が建てられ、また、首将井上善兵衛の墓である宝篋印塔は五〇〇メートルばかり北側の日吉神社横手移され、大番堤のほとりに荒れ果てて残っていると「平川文化散歩」で石川卓美氏が述べられています。

 さて輝弘の乱の古戦場跡を各地で見てきましたが、上陸地点であった秋穂には何の事跡もないのか、被害を受けることもなかったのか、その点について述べなければなれません。輝弘は後世その悲運に同情する声よりも、その侵攻に際して付近の重要な寺院を焼き払ったその許すべからざる行為をにくまれ、悪賊非道の徒として汚名を似て呼ばれています。彼はキリシタン大名の宗麟の手先となってこの暴挙を行ったというわけです。

 秋穂はその上陸点とはなりませんでしたが、この地ではげしい戦闘があったという記録はなく、また善常時も清光院(現在の偏明院)も戦火にあわずにすんだことは、秋穂にとって大変幸せなことでありました。

 もっとも輝弘が侵攻を企てた十月よりも数ヶ月前、即ち、同年六月と八月の二回に亘って大友宗麟は小郡湾沿いの白松、秋穂方面の偵察を行っており、その時秋穂浦でも毛利勢と小競合いがありましたが、他の輝弘軍勢通行の道筋にあたる地方では各地で有名寺院が焼け打ちにあたっていることを思うと、秋穂は拠点であったが大きな被害をうけずにすみました。

 ところで輝弘の乱にまつわる伝説は長浜と岩屋にあり、兜山、細声谷の地方から、輝弘船頭の墓や馬かくしの伝説がそれです。これについて述べましょう。

 山口から秋穂浦に退却してきた輝弘の軍勢はさきに申し述べましたように、毛利勢により凡ての船を焼き払われていて、全く逃げ道を断たれてしまったのです。
 こんな筈はないものと、当時はまだ黒潟は海で、僅かに祇園町西側から長い砂洲があって、この砂洲を伝って生い茂るヨシの間を船を探して西へ西へと三々五々連れ立って敗残兵は美濃ヶ浜にまでたどりついてみましたが、ここにも船はありません。引きかえしたところで敵の急追にあって逃げる道はありません。

 もはや引き返すこともならず、三々五々ただ黙々と岩屋方面にあてもなく歩きつづけました。こうした岩屋の山や谷間には多くの敗残兵があてもなく歩き、重い兜もを脱ぎ捨てて、一人また一人と、淋しく死んでいったというのです。兜山なる古墳のあった小高い山の名前もこの哀れな落武者の最後を物語る地名として、今に残っているのです。

 また岩屋山の狼峠の手前を細声谷といい、今では人家も数軒ありますが、その昔は大木の生い茂る淋しい谷間でありました。その谷に入りますと「もし、もし・・・」と呼びとめらるような声が聞こえます。気のせいでしょうか、人々は「いや間違いなく人の声、あれは輝弘勢の落人の亡霊の声だ」というのです。ここまで逃げ込んでは来たものの、日毎夜毎、敵の討手が近づく足音を気にしながら、遂に味方同士でさえ疑心暗鬼、疑いながら疑われながら、神経をすり減らし、餓死していった亡霊が、今も声なき声、姿亡き姿となって、細声谷にいるのだというのです。

風土注進案には「この谷に落ち人隠れ、細声にて、討手の勢はすぎ通り候やと道行く人に問いしよりこの名ありと申し伝え候」とあります。

「輝弘勢船頭の墓」については風土注進案に「輝弘豊後より乗り来りし船方の船頭、この地にて討死にせし墓の由、土人申し伝え候」と二島村のところで述べられ、それが二島のどこにあったのかも今は明らかではありません。
 秋穂浦にもそうした墓が数多くあったかも知れませんが、天保頃の風土注進案にも全然記録はありません。
 尚、岩屋には「馬かくし」「馬の浦」「海賊谷」「艫付山」等の地名があり、いろいろのことを私共に連想させてくれます。

 資料(石川卓美・平川文化散歩、秋穂二島史、続防府市史、風土注進案、岡村好甫・大内輝弘の山口進攻事件とその歴史的評価(地方史研究35)、宍戸記) 
秋穂町教育委員会嘱託 田中 穣 編著 「秋穂町の史跡と伝説」 秋穂町公民館
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