浜村 秀雄(マラソン選手)

昭和三年七月二十日花香北に生まれる。父幸一、母モト、長男は戦死し、次男は死産だったので三男の秀雄が家を継いだ。昭和二十一年に町民体育大会があったとき、1500mに出場して優勝。ついで郡体・県体でも優勝。翌二十二年の県の大会で四回優勝し、同年十月、奈良で行われた全国青年大会に県代表として出場、予選を通過して決勝で四位になった。ここで本格的にやることになり毎日練習をかさね、二十四年の東口杯全国陸上競技大会の、浜村は無念の涙をのんだ。同年十二月宇部で行われた毎日マラソンで二位に入賞、ボストンマラソン日本代表に選ばれた。陸上競技を初めて七年目、マラソンをめざして四年目のことである。

昭和二十八年四月二十日のボストンマラソンでは、日本の小柄な選手山田敬蔵が大会新記録で優勝、浜村は六位であった。ここで浜村は、体力的にも山田よりも優位な条件に恵まれている自分が負けたのは、初の海外遠征、観光気分が多分にあり、自分の心に甘さがあったと、自分自身を深く反省した。(山田 身長1m58p、体重44s、浜村は1m67p、体重が60s)帰国後、打倒山田を目標に世界一への挑戦を始め、一日25qから35q走った。

昭和二十八年十二月、名古屋朝日マラソンで山田に勝って優勝。戦後日本最高記録二時間二十七分二十二秒の記録を出した。昭和二十九年五月、大阪で行われた毎日マラソンで優勝。翌三十年四月二十日のボストンマラソンでは大会新記録二時間十八分二十二秒で優勝した。

昭和三十一年メルボルンオリンピックの年を迎え、同年二月、西日本20qロードレースでも、日本最高記録一時間四分十八秒で優勝した。その後の練習でアキレス腱を痛めてしまったが、最終選考会では三位になり、日本代表に選ばれた。同年十二月メルボリンでは、大会一週間前に転倒して左膝を痛め、練習が満足に出来なくなり、レースでは十六位に終わった。この時の無念さが今に残っている、という。

昭和三十三年、アジア大会が東京で開かれた時も日本代表になった。


秋穂中学校国際科学部提供

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