行者様の神々「ふるさと探訪」
行者様の神々
平成2年町観光事業の一つに、串山ハイキングコースの整備が行われた。現在のコミュニティーセンター東側を登山口とし、善城寺山を経て串山連峯の尾根づたいに尻川の国民宿舎「秋穂荘」に至る全長凡そ2.9キロメートル、海と野原と山の景観を眺め、澄み切った大気の静けさの中での観光レクリエーション・コースである。
行者ケ嶽の石造物
その南端近くの最高峰が「行者嶽」展望所のある地点で、陸地観測測量部の三角点の指標が国旗掲塔と並んであり、附近は整備され、掘立小屋の中で憩うことができる。ここから約2メートルほど北西に下ったところに大岩があり、その下に扉のついた「行者様」の石祠がある。中に行者を中心に蔵王権現、不動明王の3体を刻んだ石板と、金比羅権現、愛宕権現、秋葉権現の文字のある石碑がある。その前面に花立と香炉が置かれ、木造の扉に「昭和十二年四月七日千二百五拾年祭記念」と墨書されている。さらに昭和11年秋穂町観光事業調査時に末繁輝亮氏によってこの石祠の記録に「明治三十二己亥三月、千二百年祭」とあり、この祭行事に白米1斗5舛、花中浜中、御神酒3舛樽、有冨兵蔵、またこの外東本町行者講、屋戸行者講中、その他も記録されている。
このように古くからこの行者様は祭られており、行者の石祠前の広場にかつて建物があったことが岩肌に痕跡があり、瓦が多く積み重ねられている。従って行者が住んで修行したところであろう。
行者は仏道に入って修行する人で、念仏行者、法華行者、真言行者等があり、時に日本では山伏を行者という。山伏は山野の険しい場所で苦行する修験者を言い、後には単に特定の行装をして精進潔斉し、霊山寺社を巡拝するものを言う。
なお、行者様を「おたけ」という場合については、琉球王府の琉球由来記に『おたけ』は常に鎮座するのではなく、祭りの時に来訪する部落全体の守護神で、供物は焼香。米、酒、時には稲麦の穂や芋を供えることもあり、その近くに「遊び場」の広場があると記されている。
その他の遺跡
また「中津江行者講記録帳」が秋穂町歴史民族資料館にあり、同地区山本トヨ氏宅にほら貝があり、行者講中が参詣のときに使用したものである。また県道附近の立石川地蔵堂に「行者参道」の道標がある。
終戦後数回「行者祭」行事が行われたと言い、桜の花の咲く頃、講中が弁当を持って参詣し、あと展望台附近で楽しく1日を過ごしたと。この行事には神宮も僧侶も加わらず、講中だけでお経をあげたという。
中津江方面からの参道に
鳥居「享保乙卯(一七三五)年五月吉祥日」
燈篭「天明六丙午(一七八六)九月吉日」
とある。この種の部落社石造物としては古いものである。
行者像は、この土地の安全のために不動明王と蔵王権現を、火災予防のために愛宕権現と、秋葉権現を、海上安全と回線、漁船の安全な操業を祈願して金比羅権現を祀り、秋穂浦人を中心に祭り行事があった。藩政時代には附近山林は秋穂浦共同の薪柴採用の立銀山で、通常「祗園山」と称した。
(注)藩政時代の山には次の区別があった。
- お立山(おたてやま) 藩の公有の用材山。軍事や土木、建築用材の採集を藩府が行う。
- 立銀山(たてぎんやま) 百姓の私有林で立銀を藩に納めた。合壁山(かつぺきやま)とも言う。
- お預山(おあずけやま) 藩士に預けた山林。お立山の一種。藩士は地元の百姓に管理を依頼した。「地下お預け山」という。この附近が中津江お預け山。
- 寺社境内山 寺社の風致や尊厳維持のために伐採を禁じた。枯損木、風倒木の採用も許可を要した。
- 地下山(じげやま) 部落共有林で、立銀(貢組)が課せられた。
- 山野(さんや) 野山とも言う。百姓の薪炭や肥料用柴草。牛馬放牧などの入会山。秋穂では筈倉山(草山)が、共同入会山であった。
資料 秋穂町史 郷土史家 田中 穣
タイピング 開地
Aio Junior High School
もどる