塩田の歴史(秋穂町史より)
上古から中世の塩田
はじめに
 昭和五十九年六月、県埋蔵文化センターの渡辺一雄氏が、山口県地 方史学会で県下での製塩遺跡調査の研究発表をされた。その中で、秋 穂地方は県内で最古の製塩地であったことをあきらかにされた。さらに 中央公民館の郷土史講座でも同氏を招いて、秋穂の上古からの製塩史 についてのお話を伺うことができた。
 ここでは、その概要を述べる。

 大河内の製塩遺跡
 大海の大河内北で、県道筋から西にニ、三軒入った標高六、七メー トルの畑(福田喜祐氏)やみかん園(西藤伝一氏)一帯に、高坏土器 の破片が露出散乱していた。
 この畑地の三ヵ所をトレンチで長方形の溝を掘ったところ、その断 層は共通していた。上部が撹乱層、中部が遺物層、下部が地山層であっ た。そのうち、Aトレンチ南半分には、多数の製塩土器が重層し、砂 や炭の細片も含まれ、そこには製塩土器破損品の捨て場とみられた。
 製塩土器は台脚部が大ぶりで脚高四〜五cm、脚上幅がニ〜ニ・五cm、 台部は経三〜三・五cmで、皿の内部のくぼみが大きい。
(タイピング 中川)
 指頭で全体をひねりながら形成し、内側は丁寧に作られている。台脚部を含め、 器約15cmで、美濃が浜に見られる、六世紀頃の短期間の製塩土器と見られる。 付近四〇〇平Cmは、保存策を急速に講ずる必要がある。

中世の製塩  鎌倉時代には秋穂二島圧が皇室領で、仁和寺善提院に寄進された。
 弓削島も同様で、塩の圧塩があった応永十四年(一四〇七)には ここから兵庫を経て四〇〇石の塩を年貢しているまたこれより前 正元元年(一二五九)仁和寺文書により塩浜の存在が確認されている。
 天田でも製塩が行われ古代から引き続き塩の特産地であった。
現在の小字地名の大潮田 南塩田 浜田 北浜 浜田一ノ切 同五ノ切 高浜 などでも製塩が行われたと推察される。  また毛利氏八カ国御分限帖によると「吉敷郡内四七石余の給分が秋穂塩浜名頭 三十四名分」とある製塩関係の給分は他にないので秋穂が塩の特産地であった事を示す。 (町史参照)
 さらに、塩の産地秋穂と消費地山口の間には「塩売り司」を介して深い関連があった。永和元年 (一三七五)の防府松崎天満宮の練札に秋穂氏の名が見え秋穂氏の名が見え 秋穂氏が塩の合物商兄部氏と深いかかわりがあったことも確かであろう。

百姓小浜
 中世の塩浜の形式を伝える「百姓小浜」と称する子規模塩田がある。 (タイピング 山下和彦)

 また、藩政時代になると大規模の入浜式塩田ができた。
 揚浜塩田については、これまでの小史で、海浜砂地の高低をならし、 雑物をのけて整地した自然砂浜に海水を打って風と日光により、水気 が蒸発させて、塩の結晶が砂に付着したものを湖水(鹹水)と言い、 この鹹水を幾度か洗いとる方法を自然浜と言った。それが改良されて 古式入浜、内潟式、塗浜と変遷したものであるという。

 秋穂附近の「百姓小浜」は、近世になっても存続したことは既に述 べた。
 嘉川・白松方面の製塩跡
 藩初のころ検地帖を見てもわかるように、川西の嘉川、佐山、阿 知須、岐波方面も古墳時代から製塩の地であった。小郡湾の干拓が 進み、塩田はしだいに縮小、消滅した。幕末頃には、まだ床波や岐波 に塩田が数ヶ所あったことが「風土注進案」に記されている。
 藩制時代に入浜塩田「遠波浜」約十六町五反余あった。
(昭和五九・九)
(タイピング 吉村賢治)


秋穂町史 田中穣編著 秋穂町中央公民館
タイピング 秋穂中科学部(中川・田辺・吉村・山下)
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