礼等の規祭定
浜持ち定規
明治前期の塩業
はじめに
屋戸藤田家文書には、明治初期から塩が専売制になる明治三十八年
頃までの諸記録が、多く残されている。以下、その資料により塩業の
推移を見る。
明治初期の混乱
維新以後公道共和の便宜なることを誤解し、自主とか自由とか、そ
の事態を熟慮せず、旧来の規定の思いを忘れ、目前の小利を求めて諸
所で混乱が起きて、従来の三八替持法を無視して増産を競うようになっ
た。
そのため塩は過剰生産となり、値崩れをおこし、仲買人に買いたた
かれて苦境に陥るものが続出した。
先月、先々月に二島塩田で述べたように、この時期に南前浜の築立
が行われたが、計画は挫折して銀主原田助左衛門はついに大きな借財
を残して、この浜を人手に渡した。その浜も約半数は永く荒浜のま
ま放置されることになり、塩価の回復した明治十四年頃にようやく成
就する。
また、塩価は仲買人の市場操作で、北国の消費地では逆に高値の塩
を買わされる事態になった。
(タイピング 吉本勇太)
塩田会議の開催
そこで明治十年冬、備後尾道で,瀬戸内十州塩田業者有志五十余名が会合して、実に三十二昼夜にわたって、協議を重ねた。かつて明和頃の塩業衰微の危機を救った三田尻鶴浜の田中藤六の建議によって、瀬戸内三千余戸の塩業者が三八替持法を実行し,結束して成果を上げたことに思いを致して、再びこの混乱を突破するために,諸規則を制定して、不服の塩業者を手分けして説得することになった。
よって明治十一年三月五日、山口県下の塩業者も三田尻浜大会所に、集まり,県下五地区の各組に総頭取を置いて不服の浜主を説得することになった。
三田尻浜でも,四ヶ所の同意は得られたが,西浦・江泊の両所では,議論沸騰して、治まらず、その説得を続けておるが,小郡浜(秋穂・二島・遠波)の状況いかんと、三田尻浜山根健策は秋穂の頭取屋戸の藤田虎太郎に書状を送っている。
このような努力が結実して,明治十二年十一月,讃岐丸亀で開かれた塩田会議で「十州塩田勧業会社規則」が定められた。この規則の最後の条に,次のように「議員心得」が示されている。
「議事ハ十州一般の公議公益ヲ計ルモノナレバ、各自塩田ノ私利私情ヲ似テ他ノ公論ヲ妨グベカラズ、マタ弁論ノ言語ハ罵詈ニ渉ラザルヲ要ス。右ノ条ヲ確守スルタメ連署調印ス。」
この規則には罰則を設け,営業期日外に操業するときは、一日ごとに金二十円の違約金を課すことになっていた。
(タイピング 橋本大輔)
また、この会社は,国内の食塩の需要を計って、剰余の塩は、海外に輸入することをもくろんでいた。その相手先に、朝鮮・ウラジオストラック
などがあげられていた。この会社は明治十三年一月に発足し、向こう十年間を
一期に結集、以後、時期に向けて営業を継続しようとするものであった。
防長塩田会社
十州塩田勧業会社が発足した前の十二月に、山口下でも、
三田尻大会所「防長塩田会社」の設立を見ている。この会社では県下の塩田を
五組に分け、各組に総頭取を置いたが、第四組小郡六ヶ所の総頭取には、
中津江浜の小野伊兵衛を決め、十州塩田会所会議にも出席している。
こうした塩業者の結束による生産調整と不作の年が、重くなって
明治十二年には塩価は著しく高勝し、百石につき百一円になった。
実に前年より二十六円も高価となって、塩業者を喜ばせた。このごろは
百石八十円で損得なしと見られていたので、前年までは欠損して生産していたことになる。
そのころの秋穂付近の、年平均の塩の生産量は次の通りであった。
大海9,600石 青江17,500石 花香中津江22,000石
長浜187,000石 遠波10,000石 計77,1000石
国内産・外国産塩の比較
農務局が明治十六年六月に出した「農事報告」
によると、次のことが指摘されている。内地塩では気象条件で製塩
に大きな差があり、南西暖地でも湿潤の空気と雨の多い熊本や高地の
外海沿岸のものは、水気も多くて品位も瀬戸内のものに劣る。
外塩は国内塩に比較すると著しくて安価で、品位も良いものが多い。よって、
海外輸出の見込みのない。極力生産コストを低くし、
特に燃料費誠滅の工夫が必要である。そのための改良策も示し、
悪徳業者や仲買人の不得心を諭している。
(タイピング 秋本)