長徳寺(旧定林寺)

 古いお寺ではじめ胎蔵寺といったのですが詳しいことはわかっていません。
 それから後、文明年中(1469−1487)に省庵悟公(しょうあんごうこう)という和尚さんがおられ、ついて天和年中(1615−1624)に蘭登全芝和尚が定林寺という寺号に改めたことがわかっています。

 この定林寺が明治三年に大海の長徳寺に合併になって廃寺となりましたが、大心実雄和尚の尽力によって長府功山寺末で、壇ノ浦に寺跡のありました長徳寺を引寺し、それより熊耳山・長徳寺と改まりました。禅宗の曹洞宗寺院です。

 そして昭和三十四年には天田にありました海蔵寺を合併して今日に至っています。
 従って、ここには海蔵寺関係の宝物や仏像もあり、黒潟南にありました慈光庵の観世音三十三体等もこの寺に引き取られています。

 寛文十二年(1672)当時の代官平田猪右衛門は青江湾の紛争についてこの寺に来て大海浦庄屋、秋穂浦庄屋、秋穂村庄屋の三人を呼んで、その境界について絵図を仕上げさせ、紛争解決の基本としました。
この寺に代官が来たのは当時金山領は中野で、大海と隣あわせのため境界については一番確かなことが判るからです。
 この時集まった秋穂村庄屋権兵衛、大海村屋権兵衛と秋穂浦給庄屋上田庄 衛門は秋穂浦でもっとも古い家筋で、その子孫に当たる上田太兵衛春成は亨和元年(1801)正八幡宮の由来碑を平原幸左衛門と共同で建てており、その家系については、「正八幡宮由来碑」のところで述べております。


秋穂町教育委員会嘱託 田中 穣 編著 「秋穂町の史跡と伝説」 秋穂町公民館
タイピング 秋穂中学校科学部 原田 横垣

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