赤崎神社と小林家

 赤崎神社は、大海全域の氏子によって祀られてきています。祭りも盛大に行われてきました。その上この大海村を支配してきた給領主が社殿の造営修築に尽くしています。
 古いことで毛利藩政の初期に宍道主殿助が寛永二十年(1643)春に仁保村から樫63本を切り出して建てたという記録もあります。宍道氏の後、元禄頃からは粟屋氏がこの一郷一村の知行地を与えられていましたので、粟屋氏も社殿造営に尽くしてきました。

 また幕末天保頃から今日に至る約150年位の間は大海の富豪小林家が従来の給領主に代わってこの社の造営その他諸行事に対しても多額の寄進を続けて今日に及んでいます。小林家では、和七、和市、和作の数代にわたる時期です。

 和七は何代かありますが大海塩田の浜持ちで、天保八年に塩浜の問屋株を免許せられて回船業で繁栄しました。赤崎神社社前の石燈籠の中には文政十年(一八二七)と天保五年(一八三四)にそれぞれ一対の石燈籠を寄進しています。

 和市も引き続き運輸の業で活躍し、千石船を何隻ももって瀬戸内海航路を上下し、山陽鉄道敷設に当たっても大株主の一人でありました。明治十三年赤崎神社拝殿の改築に際しても浄財を寄進しました。また、神輿の寄進もこの人といいます。

 ついで和作は画家として大成しましたが、たえず郷里大海のことにつき、赤崎神社や大昌寺、大海小学校や部落の公共施設等の巨額の資を必要とする工事等に対しては、惜しみなく浄財を寄進しました。そして昭和三十九年四月秋穂町の名誉町民第一号に推戴されました。

 自身の作品の他に、多くの新進画家のコレクションをもって広島県美術館や山口県美術館にも多くの作品を奇附しました。その人柄とこよなく美しい色彩画の数々を残し、昭和四十九年十一月四日、スケッチ旅行先の三次市日下野で八十六歳の生涯を閉じられました。 秋穂にとって、特に大海にとってかけがえのない人を失って人々は悲嘆にくれました。

 昭和五十年十一月多くの町民の浄財を集め有志発起の「小林和作先生頌徳碑」が中央公民館広場に建てられました。

(社伝・道中家文書・風土注進案・藤家家文書・漁業関係慣行調書・文書館)
「秋穂町の史跡と伝説」田中穣編著 秋穂町中央公民館

タイピング 国際科学部 江田・横垣・大田・西山・原田・原田(彰)・平田(陽)・平田(裕)・藤尾・道中・渡辺

もどる