
それは梅雨晴れの日で、小郡川の水かさは一段と増え、音を立てて流れていました。その流れにかかった橋の上を十左衛門は秋穂に向かって帰るところでした。馬の背に例のように炭俵を積んでいました。と前方から
「下に居ろ、下に居ろ」
と大声で叫ぶのが聞こえてきます。みれば行列の先触れをする侍が橋の向こう側に近づいています。十左はもう橋の上に来ていますので知らん顔をして歩き続けました。
それを見ていた橋元の炭屋の主人が駆け寄って
「十左、十左、戻ったがええぞ、戻れ、戻れ」
と知らせてくれました。それでも十左は炭屋に手を振りながら、頑丈な肩をゆすって足を止めることなく進んでいきました。そこにはもう先触れの侍が橋の上を駆け寄ってきます。そのはずみに橋はゆれ動くほど、幅も狭く、粗末な木の橋でした。
ですから大名と馬を引いた十左衛門とが橋の上で出会えば困るので、こんな時は行列が通り終わるまでは百姓や町人は橋をあけて待つよりほかありません。そのことを百も承知の十左ですが、十左は引き返さずになおも進んでいきます。
十左としては
「自分は百姓であるが、よその何様か知らない人に無礼なことさえしなければ、それでいいではないか、通りかかった橋から引き返して、土下座して通させることはない。」
そう思っていたからです。
先触れの侍は、馬を引いた百姓が無礼にも行列のお通りを邪魔するのはけしからん、駆けてきて十左に
「こらこら、下に居ろというのがわからんか、早う戻れ。」
そう言いましたが十左は耳が聞こえぬふりをして
「はい、はい、秋穂に帰りまする。」
と空返事をして、そのまま歩き続けました。侍は十左衛門の耳が遠いとみなして、十左先方を指差しながら、身ぶりをして
「殿様のお通りだぞ、戻れ、下に居れ。」
と十左の耳元近くに口をよせながら言い聞かせました。
「はー、下に居れって・・・・」
十左は橋の下をのぞくようにして、
「この大水に、どねーして降りられますか。」
ととぼけた顔をしました。
いかにも堂々とした六尺男が、幾月も剃らぬ無精髭、浅黄のはんてんの前をはだけ、黒い胸毛は川面を渡る風邪にゆれていました。人並みはずれたこの風体に先触れ侍はすっかり圧倒されたのか、
「戻れ、戻れ。」
と逃げ腰になって怒鳴るばかりです。
「わしゃー戻りませんで、戻らんでも邪魔にならんように、よければえーでしょう。」
と十左は言いました。
「なにっ、無礼申すと承知せんぞ、馬の脇がどうして通れるか。」
侍は顔が赤らむほど緊張して怒鳴りました。
「馬をよけたら、ようありましょう。」
侍はけげんな顔をして十左の髭面を見直しました。
「馬がどうして、よけられるか、貴様、きちがいか。」
侍は困ったことになったと思いました。
「では、お待ち下さい。」
十左は握っていた手綱をたぐって、馬の首にかけ、首筋を優しくたたき、馬の背の炭俵をおろして、言いました。
「青や、ちーと窮屈じゃろーが、こらええよ。」
十左は両手をひろげ、馬の前脚の後ろと腹の下あたりに手を入れて
「ウゥォーーーーーッ」
と満面朱を散らし、口を真一文に結び、気合いをかけました。
すると馬の四脚は宙に浮き、そのまま橋の欄干の外に差し出しました。
そこを百人余りもの行列は通り過ぎて行きながらその怪力男を見守りました。
やがて行列が過ぎると、十左は馬を橋の上にもどしました。十左は汗びっしょりになりました。
やがて先刻の侍が駆けてきて
「これ、これ、殿様が貴様の怪力をおほめになり、早速お目通りが許されるぞ、慎んでお受けするように。」
と伝えました。しかし十左は首を横に振りながら
「わしに御用がおありなら、ともかく、わしは別に殿様にご用はないで。」
と言って再び馬の背に炭俵を積むと、橋の上を秋穂の方へと渡って行きました。十左は、さわやかな溜飲にも似た、すがすがしさを川下から渡ってくる風に感じていました。